百合は、こんなに狂気じみて必死になっている健一郎を見たことがなかった。日頃は穏やかでしっかりした頼りになる人物で、滅多に声を荒げることもない。百合は嘘がつけなかった。
「あまり良くないです。喀血もこのところしょっちゅうだし、暑くなってからは食欲もなくなって、とても痩せてしまいました。父もあまりに進行が速いのでとても心配しています」
「お願いだ、百合さん、なんとか綾菜さんに会わせてくれないか。いや、どうしても会わなければならないのです。もうこのような状態には耐えられない。どうか……」
必死になって頭を下げる健一郎を、百合はなすすべもなく立ち尽くして見つめていた。姉にあまり時間がないのは、認めたくはないがもう誰の目にも明らかであった。
健一郎の気持ちがひしひしと伝わり、無下にだめとは言えない。だがもし姉に聞けば絶対会わないと言うに違いなかった。どうしよう、どうしたら良いのだろう、百合は必死で考えた。そして、
「分かりました。ではこれから一緒に来て下さい。今日は父は登城しています。母は多分奥の部屋で縫物をしていますし、兄は雪斎先生の所です。大丈夫、誰にも会わないと思います。佐枝さんがいつも傍に付いていますが、私が顔を見せると、暫くの間いつもその場を離れてくれます。姉の寝ている離れの外の庭で隠れて待っていて、私が合図したら上がってきて下さい」
綾菜の世話は、殆ど女中の佐枝がしていた。母は元々体が弱いので、姉の傍で看病することは父に固く禁じられていた。それで百合と同じように一日に何度か部屋の外の廊下から覗いて様子を見ている。
佐枝さんは深雪が小さい頃から深雪の実家で女中をしていた人で、聡順と深雪が結婚した時、深雪について富山に来たのだった。
綾菜が小さい頃からずっと綾菜の世話をしてくれていて、綾菜もとても懐いていた。綾菜が病気になった時、自分から綾菜の看病をさせてくれと父に頼み込んだのであった。
父が、この病は移る危険性があるからと言っても、全く意に介さず、
「私がやらないでいったい誰がやるのです。奥様には絶対にさせられないではないですか。それに私は馬みたいに丈夫です」
と食い下がり、誰も止められないうちにさっさとその役を始めてしまったのだった。