日本人町があった当時の町の様子がそのまま現存しているのは、ベトナムのホイアンのみとのことである。タイのアユタヤの日本人町跡には、日本人のお墓でさえも一つも残っておらず、我々に当時の日本人町を想像する為の手掛かりを何ら与えてくれることはない。

秋津島にて日々残業に明け暮れている我が同胞には相済まないことであるが、在外生活の中で最も嬉しいことは、ある程度纏まった休暇が、人目を憚る事なく取れることであろう。「一九九七年の年末と、その翌年の年始をどう過ごすか」ということが、九六年十一月も月末に入った私と配偶者の一大「イシュー」であった。

十二月の初旬のとある土曜日のことである。早朝のコンペを終え、ゴルフのスコアが悪かったのは道具のせいだと決め付け、空気の悪いバンコクのアパートの一室で黒々と育った鼻毛を抜きながら、年末年始用の邦人団体旅行者用の各種パンフレットに見入っていた。

ベトナム、ホイアン、フエの文字が目に飛び込んで来た。まさしく「天の声」が聞こえたかの様だった。日本でギャラリーを主宰している友人に言わせると、忽然とアイディアが浮かんで来た際は、「天使が舞い降りて来た」ということらしいが。

「山の神」との旅行先探しの勝負は、その時、決着した。一九九六年十二月二十九日、バンコクからホーチミン、ダナンと国際線、国内線の飛行機を乗り継ぎ、ダナン空港から国道一号線と呼ばれる悪路を観光バスに揺られながら、我々バンコク村日本人観光団は、やっとの思いでホイアンに辿り着いた。

一行は、十二月とはいえ、するどい陽射しの差し込むホイアンの「チャン・フー通り」をそぞろ歩きし、福建会館や四百年以前に建てられたという古い商家や博物館を訪れたり、骨董品屋やお土産屋をひやかしながらゆったりとした時を過ごしていた。

ホイアンの街の様子は、さながら遠い昔の世界にタイム・スリップした感があり、その昔日本人が往来を闊歩していた様子がしのばれた。

「チャン・フー通り」の外れにある「来遠橋」は、一五九三年に日本人が建設したと言われている。その橋は、『マディソン郡の橋』で一躍世界的に有名になった米国アイオワ州の橋に見られるように橋の周りを建物が覆っており、何とも風情のある橋であった。

その橋を覆っている建物は、閩人(びんじん)(福建人)が後世になって建設したと言われているが、古い落ち着いた佇まいのホイアンの街と非常にマッチした橋であった。

来遠橋の由来に関して、『観光コースでないベトナム――歴史・戦争・民族を知る旅』(伊藤千尋著、高文研)という本によれば、論語の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」から、当時南ベトナムを治めていたグエン・フク・チュー(阮福凋)が、『来遠』を引用して一七一九年に名付けたとされている。

ホイアンで論語に出会うとは、夢にだに想像しなかった。街を歩いて気が付いたことは、街のいたるところに井戸があることである。歴史書等によるとその井戸のほとんどが、ホイアンの先住民族であるチャム人によって掘られたものらしい。

ホイアン最古の商家と書かれた看板のある家の中にお邪魔すると、そこは京都の商家のような奥行きの深い構造になっており、入り口からやや入ってパティオがあり、そこから外光を取り入れていた。パティオには小さな池があり、観葉植物が植えてあった。