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九年ぶりのタイ
一九九四年十一月に二度目のタイ勤務となった。
一九八五年、タイを後にしてニューヨーク勤務となり、その後、東京に戻ってから九年ぶりのタイである。放蕩息子の帰還にも似た九年ぶりのバンコクの印象につき様々な人に聞かれるが、高層ビル及び新車数の増加等はともかく、街を行くタイ人の顔から微笑みが少なくなり、その眉間に皺が増えたような気がしてならなかった。
「九」は日本では忌み嫌われている数字である。しかし、タイではその発音(ガウ)が「繁栄(ガウ・ナー)」と同じであることから、めでたがられている。
資産数千億円とも言われているタクシン前外務副大臣のベンツのプレート番号が九が四つの九九九九であることを偶然テレビのニュース番組の映像から発見したが、一代で何百億円の富を築いた合理的なビジネスマンでも験を担ぐのかと苦笑した思い出がある。
九年ぶりの「九」という数字はこれからのタイでの私の生活にいかなる吉祥をもたらしてくれるのだろうか。九年ぶりのバンコクにて昔の佇まい、匂いを探そうとするのは、異邦人の単なる感傷にすぎないのだろうか。
思い出そうとしても忘却の彼方に消え去ってしまった記憶が多い。それでも記憶の秘密の扉が偶然に開かれ、一瞬忽然と昔の思い出が蘇ることもある。バンコクの暗闇は、あの日の記憶を思い起こさせる為には十分であった。
昔の下宿先には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤務していたマリオというスイス人の青年も間借りしていた。ある日の夜中、マリオにカンボジア難民の子の様子がおかしいとの電話があった。
マリオに誘われてタクシーを飛ばし、ルンピニー公園の中の仮設テントにかけつけた。そこは、悪臭が漂い、痩せ細り、目ばかりがランランと輝くカンボジア難民達がひしめきあっていた。
何とか目的の子供を捜し出すことが出来たが、驚いたことに肩で息をし、ほぼ危篤状態に近い有様だった。タイ・カンボジア国境地帯を裸足で越えて来たのであろう。膿みとかさぶただらけの小さな足が哀れだった。
マリオ及び子供の父親と共にバンコク市内の二、三の病院を回ったが、全て入院を拒否され、最後にミッション系の病院のシスターになんとか引き取っていただいた。蒸し暑い夜であった。