優輝と慶三
未代が最初に慶三の存在に気付いたのは、優輝が十カ月を過ぎてお座りは安定したものの、まだ言葉をろくに喋れなかった頃だった。
ふぎゃあー、と激しく泣いている優輝に気付いて和室の戸を開けた時、優輝はぴたりと泣き止み、極めて明瞭な声で「腹が減ったから何か食わせてくれ」と言った。
びくっとして電気を点けた未代は部屋を見渡し、その声の主を探したが、当然他に誰も見当たらない。
「ここだよ。俺だって」と再度聞こえてきた声を追うと、未代の視線の先では、仰向けで泣いていたはずの優輝が、なぜか布団の上に座ってけっけっけ、と笑っていた。
「もうそろそろ気の利いた離乳食食わせてくれよ。体中ミルク臭くてたまんねえ」
母親を見上げて食事の催促をする息子に、未代は、うっそおー!と叫んで駆け寄り、正面に正座して小さな体を見下ろした。
「優輝、なんでそんな正確に喋ってんのよ。いつから? いつからこんなことできるようになったの?」
初めて子を持つ母親には比べようもないのだが、これはいきなり成熟しすぎだろう。確か昨日までは、だーとかあーしか喋れなかったはずなのに。
「未代。いろいろ苦労してるなあ。よく頑張ってるよ。ほんとに偉いと思う。俺はお前を誇りに思ってるぞ」
さらに優輝の言葉は続いた。
ん?と未代は首を傾げた。なにこの、さっきからの上から目線。私の空耳? ふつうに、一歳未満の子がこんなこと言うわけないじゃん。でもこの喋り方には、どこかで聞いたような癖がある。いつになく器用に両手を上下させているし。
……まさかとは思うが。未代は我が子の顔を凝視しながら顔を近づけ、馬鹿げていることを恐る恐る口に出した。
「……お父さん?」
「わかってくれたか。さすがは我が娘だ」
未代はふらっと崩れそうになった。
「嘘だよ、こんなの」
「嘘じゃないさ。ちゃんと夢で説明したはずなんだけどな。忘れたのか?」
夢? あの夢のこと? それなら忘れてなどいないけど。逆に変な夢だと気になっていた。いや、優輝が生まれてからは、忙しくて思い出すこともなく、いつしか忘れてしまっていたな。
「あれって説明だったの?」
「そうだよ。いきなり出てきたら驚くと思ってさ」
「そりゃそうだけど……簡略すぎない?」
「昔から、一を聞いて十を知れって言うじゃないか」
「一にもなってないって。いいとこ〇・五くらいじゃん」
「けっこう細かいな」
「そりゃ数字には細かくなったわよ。これでも経営者だもん」
気のせいだろうが、優輝の表情が、父慶三が物事を諭していた時の顔と似ているように感じる。見とれていると、優輝の瞳がすっと細くなった。続いて上体がぐらっと揺れて仰向けにひっくり返り、畳の上でごとんと鈍い音をたてた。
うぎゃあー!と泣きはじめた優輝を素早く抱き起こし、後頭部をよしよしとさすっているうちに安心したのか、優輝の泣き声は徐々におさまり、平穏な顔に戻った。
「ねえ、お父さん。どうして、優輝になって戻ってきてくれたの? あたしが心配だから?」
未代は腕の中のあどけない顔に問いかけてみた。我が子の優輝は無邪気に小さな手をばたばたさせ、あ、あ、と歯の揃っていない口を開けて笑っている。
「お父さん?」