チャールズ・ブコウスキーに救われる

三十歳を過ぎても転職ばかりしていて、一向に収入は上がらない。酒や煙草を買うのも自由に行かず、家賃を払うために日銭を稼ぐ。何の運も感じずに街を歩いていても、何のきっかけも見つけられそうもない。そんな私はやけくそになり落ち込んでばかり。

もし大学へでも行って、そのまま就職して、退屈だろうがなんだろうがその会社でこの歳になるまで過ごしていたとする。するといい加減そろそろ役職のようなものに就けたりして、収入は上がり、ある程度安定した生活を過ごしていることだろう。そうは思うが、そのような生活にあまり魅力を感じないからこんな生活を送る羽目になっている。つまり、これが数々の決断の上に成り立った現実なのだ。

それにしても、もう少し器用に、賢く、なんとかならなかったものだろうか。我慢が足りなかったのだろう。妥協ができなかったのだろう。抑えが効かなかったのだろう。現実を見ないで夢ばかり見ていたのだろう。一つのことをできないのに、十のことをできるような気がしていたのだろう。社会の外れ者なのだろう。そうやって自分を責めてばかりいて、むしゃくしゃして、本ばかり読んでいるのだ。

社会を見渡せばサイボーグのような人間達が目に入る。しかしそこには何の疑問も感じない人間達があまりにも多く、全てのことが当たり前として毎日地球は回っている。そのことに対して疑問を感じれば感じる程、人々と自分との距離は広がる一方。けれども唯一そんな自分を慰めてくれるものが読書というわけだ。

だから私は本ばかり読んでいる。

つまらない本、下らない本もあるが、これだと思う本にめぐり会えた時の達成感は半端ではない。下を向いていた気持ちが開き直りに変わるのだ。そして、大きいことを言い出す。本当は何が間違っていて、何が正しいかというようなことを語り出し、自信が蘇ったりする。社会の人々に対して怒りを抱くことだってできるようになる。その時、自分を責める気持ちはなくなっている。

世の中の人間を九対一に分けるとしたら、その一割の中に自分がいる。理解者は少ないが、決して間違ってはいないのだとまで強気になれる。三十歳を過ぎたばかりで、人生を嘆いている自分がいかに阿呆らしいかと考えることもできる。これからどうなるかなんて全くわからないではないか。何もしないことが悪いのではなく、諦めるということが最も悪いことなのだ。

そういう風に、私の気持ちを変えてくれたのは、チャールズ・ブコウスキーである。酒と女とギャンブルが大好きで、作家を夢みながら転職ばかりする。しかし、五十歳になって開花するのだ。

某有名大学の文学部を卒業し、出版関係の仕事に就き、若くして文壇にデビューし、多くの長編小説を手掛ける作家よりも、日雇い労働者を転々としてきたチャールズ・ブコウスキーの方が私には夢を与えてくれる。真面目になんて生きていなくたっていい。とにかく一番やってはいけないのは諦めることだ。