一九八〇年代初期、カンボジア問題は、泥沼化の様相を呈していた。
当時、インドシナ地域の将来には一筋の燭光も見出されず、その地域の政治的不安定は、タイの安全保障にとっても極めて大きな影を落としていた。チュラロンコーン大学政治学部国際関係課程にて、主にタイとインドシナ諸国との外交関係を研究していた私にとり、大学の友人、それも一番の親友がベトナム難民の子供であるということが俄かには信じられなかった。
下宿のおばさんの息子は、警察の公安の幹部だったので、私の下宿先から自然とウィラットの足が遠のいた理由が、その後になってやっと理解出来た。大学の学期休みを利用し、ウィラットの帰省先である「ウボンラーチャターニー」におしかけたことがあった。ウボンでウィラットの父親に会うことも出来た。
ウィラットの父親は、いかにもインテリ風の風貌で、パイプをくゆらせていたが、足が自由でないらしく、タイ語による簡単な挨拶を交わした後は、即退座してしまった。あの時、ウィラットの父親ともう少し話を交わし、その数奇な人生に関し、詳しく話を聞くことが出来ていればと、悔やまれてならない。
ウボンでは、山盛りのハーブと一緒に食する美味しいベトナム料理をご馳走になったり、ウィラットのベトナム系の友人達と近くの川に泳ぎに行ったりして、夢の様に楽しい時間を過ごした。友人達と東北タイ訛りで楽しそうに話し、屈託なく笑うウィラットの姿は、バンコクではあまり見たことのないものだった。
僅か数日ではあったが、ウボンヘの旅は、私にとり、タイ・ベトナム関係を考えさせてくれる好個の機会を与えてくれた。バンコクに戻ると、早速ベトナム関連の文献を探し出し、ベトナム難民等に関する勉強を始めた。
一九五〇年代前半のベトナムにおける「ディエンビエンフー」の戦闘では、約八万人に上るベトナム難民が、タイの東北タイに避難して来た由で、その後、国際赤十字の仲介により、その半分の四万人程度の難民が、北ベトナムに送還されたが、残りの四万人が、東北タイ地域に残留した等についても勉強することが出来た。
南ベトナムの共産化後に発生した所謂「ボート・ピープル」のベトナム難民ではなく、一九五〇年代にも、既にベトナム難民がタイに住み着いたとの事実関係を知った。いやそれ以前にも多くのベトナムの難民がタイに避難して来た歴史的事実があったことにはもっと驚かされた。
また、当時読んだホー・チ・ミンの伝記の中に、一九二〇年代の末期にホー・チ・ミンがタイの東北地方に入り、同地域内で教宣活動を行った経緯がある旨の記述も発見した。その後、私が一九八四年に初めて訪問することが出来たサイゴン改め「ホーチミン・シティー」は、当時ベトナムがカンボジアにて戦争をしていたせいか、街中は眠った様にひっそりしていた。
シクロに乗り、サイゴン港(森鷗外の小説『舞姫』の冒頭で主人公の乗る船に石炭を積んだ港)の直ぐ側に建てられた「ホーチミン記念館」を訪問した。記念館の中には、パリ、モスクワや世界諸国を回ったホー・チ・ミンの人生の航路図も掲載されていたが、その航路図の中に、東北タイヘの足跡が記されていたか否かは記憶に残っていない。