貧しかった日本
戦後のベビーブームの時代に生を受け、幼児体験の記憶はあまりありません。ただ幼稚園の近くにはグリーンとホワイトのペンキ塗りの駐留軍の名残の木造ハウスがありました。
昭和30年代(1955〜1964年)のはじめは「三種の神器」という言葉が流行語となり、洗濯機、電気冷蔵庫、テレビ(白黒)が憧れの生活のシンボルでした。当時は量販店もなく、街の小さな電気屋の店頭に商品がならんでおり、まだまだ高嶺の花の電気製品でした。テレビゲームどころか、テレビも普及していない時代には街頭テレビがあってレスリングや相撲中継を多数の人が見ていた風景を思い出します。
昭和34年皇太子さまのご結婚を機にテレビが普及し、14インチの白黒テレビが6万5千円で公務員の初任給の6ヵ月分と高価でした。街には市電やバス、トロリーバスが走り、車も少なく、木造の家屋がほとんどでした。JR大阪環状線も国鉄城東線と呼ばれ、京橋から森ノ宮付近は戦争の爪痕が残っていましたが、いまは大阪ビジネスパークの高層ビル街に変貌しています。
小学校は大阪市内とはいえ、戦後10年ごろの学校周辺には田んぼがあちらこちらに残っていました。低学年時代は教室不足が深刻で同じ教室を午前と午後は違う学年が使用し、午前中教室を使用した児童は午後から帰宅する変則授業でした。もちろんすし詰め状態の教室でした。
学校給食は毎日がコッペパンに脱脂粉乳と具のあまり入っていないスープ類でした。贅沢かもわかりませんが、給食がおいしかった記憶はまったくなく、肉と言えば鯨肉でした。いまでは高級品です。ミルクと似ていてまったく味の非なる、あの独特な臭いの脱脂粉乳のおかげで未だに牛乳が苦手な世代です。
脱脂粉乳といえば聞こえはよいですが、海外では家畜の飼料でした。給食制度のおかげで学童が不自由なく食事をとれたのは事実ですが、早く中学生になって弁当を持参したいと思いました。
モータリゼーションにほど遠く、遠足といえば贅沢な観光バスなど利用せずにひたすら徒歩と大阪市電でした。学校は木造校舎でプールもなく、図書館も名ばかりで蔵書もほとんど完備されていませんでした。放課後は校庭でソフトボールやドッヂボールに興じ、夕方遅くまで仲良く遊んでいた記憶が蘇ります。家に帰れば近所の友達とベッタン(メンコ)やラムネ玉で遊び、かくれんぼもよくしました。