上陸(1日目)
厚いガウンで寒さを避けた夫人が、いぶかしげに応対する。
「ご予約になったご主人の栄養剤を持ってきました」
亡命した男が指示した合言葉を口にしてみた。その言葉に夫人は急に顔を紅潮させ、あわてて中に招き入れ、身づくろいをしながら「遠方からお越しいただき、大変お疲れでしょう。ただ今主人はおりませんが、30分もすると勤務先に到着しますので連絡を入れますから、それまで手足を温められてお待ちください。どうぞ、ご案内いたします」。夫人の後に続きながら、「実に立派な邸宅ですね。この国は初めてですから、住居の間取りに興味があります。ご迷惑でなければ拝見させていただけないでしょうか」と言う。
少々自慢を交えた案内にしきりに感心しながら、受話器の下、テーブルの下にと、盗聴チップを貼っていく。
案内とコーヒーの後、「このような立派な邸宅に逗留させていただくのでしたら、周りの様子も下見したくなりました。荷物をどこかに置かせていただいて、10分ぐらい外出してきます。よろしいでしょうか」と申し出た。
「寒いからすぐにお帰りください」の言葉を背中に、小袋を下げて門を出ると、受信機を耳に当てた。
保安部長の主人を大至急電話に出してもらうよう興奮している声がする。主人は「ついに現れたか。下着類がたくさん入ったバッグを置いて出たのか。最高の魚が食いついた。すぐに保安部員と帰るから、歓待の準備をしているふりをしろ。うろたえるな」と指示を出す。
物陰にひそみながら、指先に貼った指紋消しを剥ぎ、眼鏡を外してコートを逆にして、うすよごれて今にも破れてしまいそうなフード付きの表地にかえた。
軍用車が猛スピードですれ違っていったが、背を丸めて風と戦っている人たちには目もくれない。
朝飯屋で、「道路の日陰部分の氷を剥ぐと、石炭20個が報酬として支給される」ということを小耳に挟んでいた。そこで、氷を剥ぐ人たちに交じって並ぶと、うっかりすると厚い手袋でも手の皮が剥がれてしまいそうな鉄製の棒を手渡された。間もなく、軍用車両と警察官たちが大勢、脇を走り去っていった。鉄道やバスの駅を目指しているのであろう。
暗くなる頃、20個の石炭を一番煙の少ない家の軒下に空けて、決まり文句の「冷蔵庫の野菜室のりんごは傷んでいますので捨ててください」と送信するために、洞窟に戻っていった。このプロジェクトは、たとえ一つの組織が摘発されても、芋づる式にならないように練られていて、反抗グループが全く独立していてお互いを知らず、体制崩壊時に初めて一斉に指令があって、暫定政府の組織、法律などの設立手順が渡される。それが交互監視体制の今を潜り抜ける手段だと心得ていた。しかしこの亡命者の陰謀からうまく逃れたものの、目指す先からは大きな後退であり、危険が増したことに間違いはない。