亡命の大物
その男は前日の精悍さに変わりがないが、髪と目は黒く、眼鏡をかけて、顔に傷一つない、完全な東洋人になり切っていた。
ワシントンから30キロ内陸に入った高級住宅街の一角に車を止めて、あたりを探る。
他の景色との違いは、家々が完全独立で、崖やら高い塀やらで囲まれていることで、それでもまだ足りないのか無数の監視カメラもあり、気配だけだが人間にもガードされているようだ。
亡命の男はここで守られている。1軒の家の呼び鈴を押す。ドアが開いて、屈強そうな執事が、無言のまま応接室に案内をする。
ここの主人──亡命した男が現れ、食糧難の国を想像できない二重あごの脂ぎった顔で、にこやかに手を差し出してきた
「貴国の要望は承っています。亡命を認めていただいたお礼に、可能な限り協力を惜しみません。亡命したとはいえ、私の組織は今も生きています。貴方の上陸目的はうかがっていませんが、まずは私の影の懐刀の男を頼ってください。その男は今でも政府の中枢にいます。政府の転覆をひそかに進めています。きっと貴方の力になります」
と言いながら、地図と資料を手渡した。
「コーヒーを」「食事を」としつこく勧められ、さらに深く知りたそうだったが、感謝の言葉を残し、早々に退散した。黒髪と黒目は本物で、彼の両親もその国からの脱出組であった。
政治が慢性的に不安定なために国民生活に潤いがなく、インフレに悩まされ、犯罪が多発して、国民に活力がなかった。なえた心が現実から逃れるように、宗教にすがるようになる。現実を否定する過激な思想に共感して、新天地を夢見てしまう。
その土壌にカルト教団が芽生えてしまった。教主の教えに盲従すればこの世の苦痛から解き放たれるという幻想が蔓延した。教えにそぐわないものはすべて敵として排除される。
従来の文化も教育も否定された。今の秩序を破壊して国が大混乱するのを隣国の覇権の餌食にされ、その先鋒を務めさせられたカルト教団の教主が大統領に担ぎ上げられた。
彼の両親はその教団のイデオロギーを押し付けられ、洗脳されるのを避けるために、犯罪者のように指名手配されながら、死線を越えてようやくアメリカにたどり着いた。
それがゆえに、乳飲み子であった彼を残して、間もなく二人とも病死してしまう。孤児施設で養育されながら19歳で政府機関に就職を勧められ、気がついたら秘密機関の若手トップになっていた。