市場

10日ほど過ぎて、その男は首都に近い衛星都市の市場に、靴修理の小店を出していた。カルト教団の最初の謳い文句、食糧・医療・教育を無料であまねく与えられるはずが頓挫して、闇の市場を頼らなければ命がもたない現状で、衣食が足りていても、今日の命の保証がない人もここに(たむろ)っていた。

小店といっても、工事現場用の古い一輪車を改造した客用の椅子兼荷物台が主で、客一人と相対すれば、次の客は立って待つよりほかはない。それでも競争相手がなく、結構繁盛していた。

児童施設に入所中、職業訓練の一つが靴の製造と修理で、呑み込みが早く手先の器用な彼は、すぐに一流の靴職人になった。今度の隠れ蓑の一つとして、靴修理の部品や靴製造の器具と高級な子牛革や靴の内革、底革とか踵部品なぞ、この国の主要な取引国から取り寄せ、準備してきた。ワックス、接着剤は容器の中身に自国のものを詰めてきた。

市場を仕切るボスがいて、彼は最高の靴を挨拶代わりにプレゼントしたので、ボスの隣に出店場所をもらい、何かとアドバイスをしてくれた。

出身地からの移動には許可書の携帯義務があるが、国の北部県の役人に大枚を払い、「証書発行」と元帳に記入してもらっていた。

峻嶮(しゅんけん)な山脈が連なる鉱物資源が多いその出身県は、資源探査や登山目的の入山者が多く、彼はそのどれかで山中に入り、遭難しているのを地元のマタギに助けられ、九死に一生を得たが、記憶喪失のために自分の名前すら思い出せないまま冬はマタギ、夏は獲物のなめし革で靴やサンダル作りを教えてもらった。その恩人が亡くなり、地方訛りがないから都会出身ではないかという役人の勧めで手がかりを探している、と記憶喪失のもどかしさをにじませて、身の上話とした。

今の顔は本当の素顔で、歴戦の古傷である右頬の深傷や、額の切り傷などがそのつくり話と符合して、聞く人の目が彼の顔を見て納得して、眉を寄せて頷く。

客の注文はほとんどが崩れた靴の形の復元か、減ってしまった底の交換であったが、傍らで、ボスにプレゼントした高級靴と同じものを、目をむくような高値で展示していた。この世を貪る金満家の目を引きつけるための餌である。

靴1足作るのに200工程もあるので、とりあえずサイズを記録して、旅館に帰ってから製作にとりかかる。驚くような製品の感触に、お客の注文は次に家族に、上司への貢物に、と広がっていった。納入先の客層が上がると、その勤務先や住居に近い市場に移動を勧められた。目指している首都圏内の市場である。