こう説明すると、エリザベスも幾分か安心したように見えた。紅茶を少し含んだだけの朝食だったが、気持ちはかなり重苦しそうだ。慌ただしくチェック・アウトを済ませ、ローマに引き返すことになった。
その途中、エリザベスは気の毒なほど大きく落ち込んでいた。悲しみをたたえた瑠璃色の瞳は赤く充血し、肩を大きく上下させながらメルセデスを運転するその様子は、次々に明らかになる秘められた過去に、大きいショックを覚えていることは明らかだった。
しかし同時に、唇を真一文字に締め、これから更に明らかになるであろう新たな真実に抗う勝気な様子が、緊張感の溢れる車の中にも伝わってきた。恐らく昨晩は一睡も出来なかったのに違いない。
ローマ・フィウミチーノからロンドン・ヒースロー空港へ戻った折、バッゲージ・エリアから外に出ると、驚いたことに心地が出迎えに来ていた。
「よう宗像。今日は、エリザベスさん。実は、道々話したいことがあって空港まで来ることにしたよ。磯原さんから話のあった、例のルッシュ現代美術館の展示コンセプト見直しの件だ。いや、先ず車に乗りましょう。エリザベスさん、さあ荷物をこちらへ」
車寄せに一台のワゴン車が横付けされていた。乗り込むと内部はかなり広く、客席のシートは向き合いの配列だった。
エリザベスと宗像が後ろの席に並んで座り、心地は前の席から二人に見合うかたちで着席した。
「まず例の話から片付けようか。磯原さん依頼の件だ」
「おお、それでどうなった?」
「結論から先に言うよ。ありがたい話かもしれんが辞退させてもらうことにしたい」
「何、辞退する?それは、またどうしてだ?」
宗像が大きい声を出したので、エリザベスが耳をそばだてることになった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商