環の帝劇出演は秀甫の盡力を自他共に容認しており、彼の社会的信用と実力はかなりのものがあった。
千田是也(一九○四~一九九四)が兄の伊藤道郎(一八九三~一九六一)について語るところによれば彼の声楽志望が叶えられ、環に弟子入りした時、兄弟の母はドイツ語教師に秀甫を招いたという。
千田是也はイプセンの『へッダ・ガーブラー』や『蘇生の日』の翻訳者として知られる千葉掬香を「ドイツへ講演旅行にも出かけた著名な独文学者千葉秀甫(掬香)」としている。
千葉掬香(一八七○~一九三八)と千葉秀甫は同時代の翻訳者であり、混同されてもおかしくない側面をもっていた。伊藤道朗は環の推薦で歌劇《釈迦》に出演し、釈迦の弟子として合唱団員に加わって帝劇の初舞台を踏んでいる。(43)
環の帝劇辞任によって千葉秀甫と環の関係はゴシップ記事の形で一斉にマス・コミを賑わせる。
まず大正元年八月(明治四十五年七月三十日以降大正に改元)十八日付読売新聞が「環女史の神隠し」として、彼女が妊娠したため、袖で隠すこともできなくなり、その相手は駿河台北甲賀町の千葉某氏で、女史の方はかねて同人を嫌って離別話を持ちかけている矢先に、許婚者の三浦某氏が近々海外から帰朝することから、面目なしとこの挙に出たのだろうと報じた。
続いて同紙は十月十一日付の「環女史の後継者」の見出しで、世間では何と云っても、環女史位の声を持って居るのは日本は無論、外国にも多くは無いので、千葉某も環女史を海外に連れ出し一儲せんと企て、それで種々彼女に附纏ったので、世間伝ふる如く単に情婦の関係等では無かったといふ。
環女史は千葉に厚くもてなされるだけ、同人を薄気味悪く思ひ、シンガポールに逃げて行ったので、千葉は目下これを追駆けて上海辺り迄行って居るといふ。
このように環と秀甫との醜聞は加速して世間に広まり、風評におおらかな環も流石に恐れをなす。秀甫のインプレッサリオとしての盡力や献身に感謝しながらも、政太郎を隠れ蓑として保身するほかはなかった。
しかし、たとえ環とのスキャンダラスな関係があったとしても、秀甫の社会的見識はなみなみならぬものがあり、彼の「演劇は如何に改良せらるべきか?」や「誤解されたる日本婦人」等は当時の社会評論として優れたものである。(44)