作家武者小路実篤(一八八五〜一九七六)の実兄で外交官となった武者小路公共(一八八二〜一九六二)も語学生の一人であり千葉秀甫との初対面の印象を大要次のように語っている。(41)
どんな方法で教授していただけるかと尋ねたところ、日本の新聞の記事を見ながらドイツ語に翻訳するのがよいだろうと言うので、自分にはそんな力はないと言うと、すぐ手許の新聞をとり上げ、私に一記事を選択させそれをスラスラとドイツ語に訳してゆくのであった。
日本にこんな先生が居るのかと驚いてすぐ弟子入りした。その後この千葉先生が環への思い止みがたく、すでに人妻となった彼女を追って、シンガポール在住の環に夫君の許可を得てでも逢いたいという噂をきいて武者小路の脳裡に去来したのは『若きヴェルテルの悩み』であった。
ヴェルテルがアルベルトの許しを得てロッテに逢ったことが今「東洋のヴェルテル」として千葉先生の上に現実のものとなった。「随分浮世の荒波を通って来た先生が、子供の様に矢も楯もたまらぬ気持になった」と同情している。
秀甫はその後環をドイッまで追い訪ねるのだが「かくて先生は若からぬヴェルテルとなって自殺こそしなかったが、瑞西ベルンに於て病を得、遂に同地で客死した」とし千葉秀甫のスイスでの病没に比べ、その後二十年にわたる世界的歌手として、永久に名をとどめた環夫人との違いに人間の運命の不思議を感じると結んでいる。
秀甫と共著のある青柳有美は、恐らく彼のことを念頭において述べているのであろう。帝劇時代の柴田環について「あの頭髪を見ると、どうしても色慾の強い女であるらしく思はれる。……色魔の手にでも懸ったら、前途を棒に振ってしまうやうな事がなからうかと心配する」。(42)
色魔秀甫の手から逃れた環は前途を棒に振ることにはならなかったが事実秀甫との関わりは複雑なものであったようだ。瀬戸内晴美の小説『お蝶夫人』にはこのあたりの事情が絢爛と描かれている。