灰色の風が吹く
深夜の薄暗い階段を上った。踊り場のすぐ目の間にある薄汚れた扉を開けた。きしんだ音がした。小さな男性用便所の蛍光灯は今日も点滅していた。
右奥にある物置場から掃除用のモップとバケツを取り出し、バケツがいっぱいになるまで水を入れた。バケツの水にモップを浸し、床から拭いていく。拭くというより撫でるといった方が適切だ。
この半年の間、築四十年のビルの五階にある男性用と女性用の便所で、同じ動作を繰り返してきた。勤務は週末と祝日を除く毎日だ。三階にも同じような便所があるが、誰が清掃しているのか知らない。女性用便所の方がまだきれいだ。といっても、どちらも悪臭がすることに変わりはない。
清掃する時間は両方合わせて三十分足らずだ。便器の汚れが取れなくても、そのままにしておく。それでもビルの管理人から文句を言われたことはなかった。きちんと掃除ができているかどうかなど、点検する必要に迫られていないのだろう。
五階には右側に三つの事務所が廊下沿いに並んでいた。掃除をしている間、事務所からは物音一つせず、明かりが灯ったこともなかった。
便所の前に置いた紺色のボストンバッグの中から水色の作業着を取り出し、その場で着替える。男性用、女性用の順番で黙々と便所の中を撫で回し終えると、バケツの水を捨てる。これだけの作業をするだけで、二日分の生活をしのげる身銭を手にすることができた。
この日、結城幸助が腕時計に目を移すと、時計の針は午前二時を少し回っていた。遅くとも一時間後にはビルを出る。十分ほど歩いた場所にある二十四時間営業の喫茶店で安いアイスコーヒーを一杯飲み、始発の電車に乗って帰宅する。
男性用の便所で掃除を始めてから五分が経過したときだった。ガラン、ゴロンとゴミ箱が蹴とばされたような大きな物音が聞こえてきた。このビルと隣のビルの間にある狭い道路が音の発信元だ。
数人の男の怒声が響いてきた。ケンカでもしているのだろうか。二十センチメートルほどの隙間が開いた長方形の便所の窓から恐る恐る地上をのぞき込んだ。