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雛人形
昭和十九年三月、出陣も間近と思った父は雛人形を飾って常春を招いた。
「食糧も欠乏してきてゐたので、大した馳走もできなかつたらう。はつきりした別れの言葉を交はすことなく別れてしまつた。後から思ひ出す度にもつとよくしてやれなかつたかと愚痴ばかり出る」
父の身辺雑記によれば、いよいよ戦地に赴くということになって、今生の別れに両親がよばれた。隊長は、親の一人一人に丁寧に頭を下げたという。
一兵士が戦地に赴く場面としては少しばかり大袈裟だと思ったが、敗戦の色が濃くなったこの頃日本軍は「桜花」という特殊滑空機を開発していた。大型爆弾に操縦席と翼、ロケットをつけ、母機から放たれて敵の艦船に突っ込む人間爆弾である。横須賀の海軍航空隊にはその訓練のための飛行場があった。常春は、「桜花」の乗員に志願したのだろうか。今となってはこの疑問に答えてくれる人は誰もいない。
常春は凛々しかった。
そういう場面は何かを麻痺させるのだろう。帰りに立ち寄った伯父は、親として満足したと父に語った。
父は思わず、
「姉さんは本当にそれでいいのか、えっ?」と声を上げた。
伯母はうつむいたまま、何も答えなかった。
結局「消息不明」という知らせが親元に届いたきり、常春は帰ってこなかった。