おーちゃん(父)の死
幼い頃から同級生と体を比較すると頭一つ大きく、田舎のお祭りではよく「わんぱく相撲」に出場しては勝利し、ノート、鉛筆、消しゴムなどたくさんもらいました。ときにはお金が入った「御捻り」も頂いたことがありました。
それを見ていたおーちゃんが「茂は強いなー、大きくなったら相撲さんだな」、と褒めてくれました。
我が家には、テレビはありませんでした。夕方の相撲が始まる頃に合わせ、おーちゃんと一緒に富良野の公民館へテレビを見によく行ったものでした。
お酒を飲む以外これといった趣味もなかったおーちゃんは、とにかく相撲が大好きで、私が五歳の頃だったと思いますが、おーちゃんに連れられ家族で相撲を観に旭川へ行きました。入幕一年目くらいの一九六一(昭和三六)年頃、稽古中の土俵脇で出番を待っていた大鵬、それを見たおーちゃんが「茂! 大鵬だ!」と指をさしたのです。私は大鵬に吸いこまれるように歩み寄り、右手で大鵬のお尻を撫でてしまったのです。
身長一八七センチ、一五〇キロ以上の大男が、私に驚いた大鵬関。振り向いたかと思いきや私を抱きかかえてくれました。周りから笑いと拍手が鳴りやまず、おーちゃんのところへ戻った茂は、頭を撫でられてまたまた満足「どうだ偉いか」、と胸を張って見せたのでした。
そんながき大将にも悲しい出来事が、それは高倉健似のおーちゃんの死です。
私がまだ小学校四年生のときでした。飲み助おーちゃんが、体調を崩し富良野病院に入院し約一カ月経過したとき、トイレで突然倒れそのまま帰らぬ人となってしまったのです。
付き添っていた姉のさっちは、責任を感じたせいか、一時ですが話ができなくなったのです。当然、私は泣きじゃくりました。母ちゃんの話では、茂は泣いて泣いて約一週間泣きっぱなし、涙が枯れるほどに大きな声を出し、毎日泣き疲れて寝ての繰り返しだったと聞きました。
それからの佐々木家は、貧乏貧乏で食べることもままならず、相当苦しかったのか、明るいだけが取り柄のような母ちゃんでさえ、ある日、私の手を引いて、富良野の町を通る根室本線の線路を目指し歩きながら「茂! 母ちゃんはもう疲れた、茂は母ちゃんと一緒に死んでくれるかい?」、それを聞いた私は、母ちゃんが言った内容に驚くこともなく「いいよ!」だって(母ちゃんはそう言っていたけど、茂は分かってないよね〈死〉を)。
しかし、母ちゃんはよく止まってくれました。そのまま逝っていたとしたら、を考えると現在の私はなく、子供も孫もいない淋しい淋しいことでありまして、やはり生きてこその人生、今になって知る感謝なのです。
たしか、イチローさんの言葉だと思いますが「後ろには未来はない、前にはしっかり希望も未来もある」、前をしっかりと見据え、もう少し生き抜いてやろうと決心する私でした。