9 結論
皇帝の下賜した鏡の銘文は「天王日月」が刻印されているのが卑弥呼の鏡であると私は確信した。
今まで国内の古鏡の専門家で、この銘文の「天王日月」が下賜された本物の鏡という論文を発表した先生方はいない。
もしこの説が、確定すれば大変な画期的な発見になり、邪馬台国の謎が一挙に解明できる可能性を有している。
ここで、その裏づけになる有力な資料を発表する。
宗像大社の沖ノ島の神に奉納された三角縁神獣鏡十二面の銅鏡の中で、宗像大社宝物のカタログに千七百年の歳月、風雪に耐えた秀逸な完形品で、国宝の銘文「天王日月」の鏡を見つけた。
これは揺るぎない本物であるといえる。何しろ神様に捧げた最高級品である。
沖ノ島で一番古い祭祀遺跡の第十八岩上遺跡より発掘されたものである。
全国で「天王日月」の銘が入って出土したものは、公表された資料によると約六十九面。
なお『観古集』の発見でその数は増える見込みである。
下賜された百枚に近い数字で、紛失、個人所有、未発掘などプラスアルファすると下賜された百枚に近い最適な枚数になる。
九州から十六枚、関西が三十枚、中国・四国が九枚、中部十一枚、関東三枚。このような数字が出ている(近藤喬一著『三角縁神獣鏡』より資料を引用)。
しかし、近畿地区に発掘された鏡が多いからといって、邪馬台国が近畿にあったとはいえない。
なぜかというと、邪馬台国九州説には、数よりそれを上回る具体的に有利で具体的な理由が存在するからである。
九州邪馬台国は、佐賀、福岡県内にあった古有力国に鏡を分有させた。東征を目論む九州邪馬台国政権は、瀬戸内海の周辺有力者には直接に配分し、近畿以東の配布は地元近畿の有力者に委託したと考えられる。
この時代には、佐賀・福岡県内では、倭鏡の生産技術、銅生産力は存在したものと考えられる。
特に豊前国鷹羽郡香春郷には豊かな銅鉱山が存在し、呉地区の鏡山大神社周辺には鏡技術者の集団が早い時期から渡来し移住していた。
鏡ではないが、時代が飛んで奈良時代になり、奈良大仏は豊前国と長門国の銅と豊前国の鋳物師の技術で完成した。
※写真は倭国最大の銅山であった豊前国鷹羽郡の香春岳である。金銀錫の生産も麓の呉地区の鏡山で生産されていた。現在は二本の煙突の上に水平になっている部分が、一ノ岳でその奥が二ノ岳、さらに三ノ岳と続いている。
石灰岩の山で、今でも宝の山である。後五十年以内に一の岳は消えていく運命にある。