母の言葉
「いらっしゃい。あら、珍しいわね一人で。敏夫さんと一緒じゃないの。それにしても随分遅い御成りね」
美紀はそう言ってカウンターに客を誘い、客の名前が書いてある焼酎を棚から取り出しグラスとアイスペールそれに本日の突き出しのイイダコの甘辛煮を用意して客の前に置いた。
「明日は俺休み」
客が答えた。
「敏夫さんは違うの?」
「よう知らん。あいつとは今、戦闘状態」
「戦闘状態って、喧嘩でもしたの? 仲がいいのに」
「阿呆じゃ、あいつは。中古で車を買うと言うので知っている自動車屋を紹介して話もつけて遣った。けど、ひっくり返しやがった。それで同じ程度の車を違う所で二割も高こう買いよった。俺を馬鹿にしているというよりボケとるわ、ほんま、あいつ」
「あら、普段から俺たちは青魚でDHAを摂っているからボケないって言っていたじゃない」
美紀が突っ込みを入れた。
「ママ、敏夫のような天然じゃ、DHAをいくら摂ってもだめ」
そう言って右手を顔の前でヒラヒラさせた。さらに埒もない喧嘩の内容をグダグダと美紀を相手に喋り出した。美紀は適当に相槌を打ち、欠伸を噛み殺しながら聞く振りをしていた。
客の話は九割九分が愚痴と自慢話だ。しかし、酔った客は本音で語るので話の端々から町で起こっている大抵のことは知ることができた。
美紀は町の情報通であり、客の話す町の出来事に大抵は合わすことができた。客が二度、三度とくどいほど話すことも一度はキチンと耳を傾けた。
これは、亡くなった智子が伝授した店で客と話を合わせるための接客手法の一つだった。話の途中だったが、ボックス席の客に呼ばれたのを口実に美紀は客の前から移動し、目顔で康代に交代の合図を送った。