「本当に。わたし頑張るから」
震える体で受付を出た。入口にはめ込まれたダイヤ企画の看板が目に入る。拳で思い切りなぐりつけた。鈍い音が響いて受付が怪訝(けげん)そうに顔を上げた。
【関連記事】「出て行け=行かないで」では、数式が成立しない。
看板はびくともしなかったが、拳からは血が流れた。既に夕刻となり、久しぶりに満員電車に乗った。家路につくサラリーマンやOLで溢れている。大学を中退してからこのかた、通勤ラッシュとは無縁の生活だった。
そして心の底で、電車で毎日もみくちゃにされるサラリーマンを憐れんでいる自分がいた。だが、今ここで目にする彼らの姿がとてつもなく立派に見えてくる。少なくとも生業があるのだ。
それに比べ俺は、吹けば飛ぶようなプライドがあるだけで他には何もない。重い足取りでようやく家に辿り着いてリビングに入ると、テーブルに置かれたパンフレットが目に入った。
「お帰りなさい」
キッチンから沙希が笑顔で出てきた。俺の姿を見たとたん、
「どうしたの、その手!」
と駆け寄ってきた。
「うん。うっかり駅の階段で足をすべらせてこのざまだ。でも、たいしたことはないよ」
すぐ手当しなくちゃ、と言って沙希は救急箱を取りに行った。この苦しいときでも、努めて明るく振舞う沙希の心根を思うと、いたたまれなくなった。手当てをして、少し間を置いてから
「また駄目だったよ」
と小声で言った。
「お疲れ様でした。お腹すいたでしょう。もうすぐできるからね。今日は研ちゃんの好きな鮪の竜田揚げよ。先にお風呂にする? でもその怪我じゃだめね。麦酒を先にだすわ」
沙希は労(ねぎら)いだけを言葉にした。
「沙希。このパンフレットは雫の?」
「ええ、そう。雫が受験する小学校のパンフレット」
雫の受験も間近に迫っている。当然のことながら、これから受験料や入学金、そして合格後は授業料やら何やら相当な出費がかかる。
「研ちゃん」
無言でパンフレットを見つめている俺を見て、沙希が心配そうに声をかけてきた。
「あ、いや。ごめん。そうだよね」
(何を情けない反応をしてるんだ、俺は)
「研ちゃんは心配しないで。受験料や入学金はなんとかなるわ。それにいざとなったらわたしも働くから授業料も大丈夫」
「働くったって」
沙希の目には強い決意が顕われている。その決意は俺の無力さの裏返しだ。なんとかしなければ。
「沙希。頼りなくてすまない。でも心配しないでくれ。なんとかするから」