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雇用関係

「いえ、なんでもありません」

「それなら結構ですが。なんでもご相談くださいね」

と言って彼女はくすっと笑った。普段なら愛嬌と受け止められるしぐさも、今は素直に応じられない。

「何か変ですか?」

「あ、いえ、失礼しました。でも、芹生さんは、パーティーでお会いしたときもそうでしたけど、いつも何か思い詰めたような目をされていますね」

「そうですか。それは失礼しました」

「別にあやまらなくても」

そう言って、美和は軽やかな笑いを発した。その屈託のない笑い声は、今度は鎮痛剤として少しだけ心の痛みを和らげた。

「芹生さんを見ていると、古典から抜け出してきた作家の香りがするんです。あっ、勝手なことを言ってしまいました」

「いえ、わたしは古いタイプの作家、いや物書き志望ですから」

ようやく、おそらく一時的なことではあるが、冷静さを取り戻して受け答えをした。

「古いって、悪いことではないですよね」

その言葉に、パーティーでの出会いではまだ女子大生然としていた西脇美和に、おぼろげながら大人の気配を感じる。

「えーと、芹生さんでしたっけ? 愛澤企画の社員心得の説明を始めてもいいですか? わたしもやることがあるので」

久連山が抑揚のない口調で割って入り、俺を現実に引き戻した。

「心得」という言葉は、あまりいい響きではない。まるで躾紐しつけひもだ。

「いいですか」

久連山は催促した。

「あ、すいません。お願いします」

返事をすると同時に西脇美和が、

「会社に戻ります。芹生さん、またお会いしましょう」

と言って席を立った。

「それでは」

久連山は、ペットボトルに口をつけた。

「まず、愛澤企画で知り得たいかなる情報も決して外部に漏らさないこと。これは雇用契約書に書かれているので確認してください」

「分かりました」

「つけ加えますが、愛澤企画に籍がある限りは出版社を含め、一切のメディアと接触してはなりません」

「えっ、それは」

受け入れ難い要求だった。

「不満ですか?」

「いえ、でも。わたしも物書きの端くれです。自作を出版社に持ち込むことを止めるわけにはいきません」

「それはここを辞めてからにしてください。情報の秘密保持とはそういうことです。このことは契約書にも記載されていますし、あなたはサインしましたよね」