わが国における劇場の近代化は明治初期の新富座(一八七八守田座を改称、改築)に始まる。その額縁舞台(プロセニアム・アーチ)と椅子席をもつ洋風スタイルが人気を集め、川上座(一八九六)有楽座そして帝国劇場の誕生となる。
帝国劇場は伊藤博文(一八四一~一九○九)、西園寺公望(一八四九~一九四○)、林董(一八五○~一九一三)等伊藤に連なる政界の長老と渋沢栄一(一八四○〜一九三一)、大倉喜八郎(一八三七〜一九二八)等、財界の重鎮の提唱により創案され、明治三十九年十二月七日夜、築地瓢屋で第一回発起人総会が開かれた。この席には根津嘉一郎(一八六〇~一九四〇)藤山雷太(一八六三~一九三八)、郷誠之助(一八六五~一九四二)等財界の若手実力者も名を連ね、三十一名が参集し渋沢男爵が創立委員長に推挙された。(3)翌四十年五月馬場先門外の濠に面した三菱ヶ原の最南端二千三百十四坪に場所選定が行われ、四十一年十二月に礎石式を挙行、四十四年二月十日に完成をみている。
帝国劇場は資本金百二十万円の株式会社として発足、取締役会長に渋沢栄一、専務取締役に西野恵之助(一八六四~一九四五)が就任している。西野は慶応義塾同窓の山本久三郎(一八七四~一九六○)を支配人に迎え、人材確保に意を注いだ。また、観劇上の諸改革を断行してわが国劇場史に新風をもたらせた。
まず、客席番号入りの切符を上演十日前から発売し、電話予約の新方式をも取入れ、東京市内は無料で配達した。朝からの観劇の慣習を午後四時開演に改め、幕間の時間を短縮、また江戸時代から続いた芝居茶屋出方制を廃止して男子の接待係、女子の案内人を場内に配して、祝儀、心付けは一切無用とした。
当時の演劇専門誌「演劇画報」は「開場前の帝国劇場」(五巻三号明治四十四年二月)「帝劇の楽屋」(五巻四号)「楽屋見た儘」(五巻九号)「帝国劇場見物」(五巻十号)等々を載せ、新時代の帝劇に寄せる識者たちの期待感や最新設備への好奇心、歌舞伎俳優たちの格式や新女優たちの華やかさなどが誌面に溢れている。
明治四十一年九月、欧州巡演を果たした川上貞奴(一八七二~一九四六)が所長となり芝桜田本郷町に帝国女優養成所を開所したが翌四十二年七月、帝劇は開館に先立ってこれを引きつぎ、帝国劇場付属技芸学校に改称、新時代の女優の育成にっとめることとした。帝国女優養成所の入所資格は十六歳以上二十五歳までの高等小学校卒業の者、もしくは同程度の婦女子で卒業年限は二年とした。募集に応じて八十余名が志願して十五名が合格している。この第一期生には森律子(一八九○~一九六一)村田嘉久子(一八九三~一九六九)等の名がみえ、彼女達は卒業後帝劇初興行に尾上梅幸(一八七○~一九三四)、市川高麗蔵〔七代松本幸四郎を襲名〕(一八七○〜一九四六)、沢村宗十郎(一八七五~一九四九)等の人気俳優に伍して〈頼朝〉の浦代姫や浪路の役を演じる程の精進ぶりであった。
彼女らの履歴書によると、例えば森律子は明治二十三年十月の東京生まれで、同二十七年京橋幼稚園修業、同二十九年跡見女学校入学、同三十九年全科卒業、研究科修業、同三十九年より築地語学校に引続き通学、跡見女学校及び介川なすに従い琴曲を修業中、とあるように最少年限で応募する良家の子女が多かったのも、新しい時代を生きる新しい女の自覚であり、また渋沢や大倉等有識者の女優養成所への賛助も親たちの許容を促したとみてよい。
技芸学校は大正十二年の関東大震災まで第七期生五十八名を卒業させて解散している。