近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
協議離婚、退官
明治四十二年三月
三月一日、藤井はさらに「テガミミタカへン」と打電した。ようやく環から「テガミ三ミタアスカへル」との電報が届いた。
この時、とわは後藤家の計らいで静岡市内の駅前旅館に出向き親族会議を開き、その足で実家に立寄った。
「お前さまもひどく苦労して可哀相だけれど、折角、音楽学校へ入って修業して他様が立派に認めて下さるようになった。藤井はお前さまに音楽を捨てさせる積りだし、どうも裁縫したりすることは上手でない。贅沢な家計を羨ましがるわけでないから、母様がお前の面倒を一生みるからお前さまも母様を一人ぼっちにしないと誓っておくれでないか」
祖父の太郎八、とわの弟で実家を継ぐ長男の政蔵が立合って環子は一生母様の面倒をみることをお誓いします。
環子
と証文を書き、これをもってとわは環の気持ちの変わらぬことを後藤夫妻に報告した。
後藤佐一郎もこの際環に養子をとり、姉とわの面倒を見させるのが順当と考えていた。
三月三日の夕刻帰宅した環に、待ち構えていた藤井は何のとがめ立てもしていない。藤井は元来、寡黙な学者タイプで、医学を学んだ人だけに相当高い見識をもっていた。環に二、三日よく自身の今後のことを考えさせ、赴任先の仙台へ引越すかどうか考えるように諭した。
環との会話は途絶え、藤井は夕方になるといつものように神田の外語学校へドイツ語やラテン語の勉強に出かけた。
ここ数日来、うすら寒い陽気が続きこの日も雨まじりの北風が吹いていた。(74)
夜もおちおち眠れないほど思案にくれる数日が過ぎた。意を決した環は、母とわの面倒をみる立場を語り、親戚もその考えである旨を正直に話した。