近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
協議離婚、退官
離婚ともなればお互いに言い分がある。環は音楽の仕事が忙しいのでつい家事をする時間が短くなる。するとそれが藤井には気に入らない。藤井は私を世話女房にして完全に妻として所有したいのです。と語る。(73)
そこで離婚に至る経過を追ってその事情を整理しておく。(74)
明治三十八年一月一日
正式に婚姻届出、柴田環から藤井環となる。
明治三十九年十二月
藤井善一東京勤務となり新居を構える。
明治四十一年十二月
興業銀行総裁添田寿一宅から外国大使招待会を開くにあたって席上独唱をしてほしいとの申込みがある。環が承諾したところ、藤井が顔色を変えて「知らない他人の席で独唱のひとつも歌うのは講釈師同然」と出席を断わらせた。
それというのも音楽会の出演が度重なり、夜、藤井が帰宅しても環が不在であったり、出演者の環自身が切符を売り捌いたり、家には弟子も出入りする。彼は「自分の妻に芸の切符売りはさせたく無し」といった世間態を第一にし、切符売りの何かを理解しようとはしなかった。
かねがね東京を離れ地方での家庭生活の安定を考えていた藤井はもし環の両親が今までどおり環を東京に残すという意向なら離婚を考えなければならぬ旨、環に言い含める。
藤井は仲人で環の伯父にあたる函館地方裁判所検事正、羽佐間栄次郎あてに家庭の事情を認めた親書を送り判断を仰いだ。返信には母親との別居は断じて許さぬ、また環が音楽を以て終生の目的とするかどうか、もしそうならば潔く離婚したほうがよい、といった趣旨のことが書かれていた。