明治四十二年一月
藤井はさしせまった家庭の事情をさらに山口県の実父秀三郎に打ち明け、その手紙を回章として兄妹たちに送った。藤井の妹で東京女子高等師範学校を卒業して現在広島高等女学校に奉職する落合トヨは早速環あての返書を認めた。「姉様は立派な芸術家ではありませんか、離婚は女の恥辱、汚れた芸術は光輝を失ひます。何卒円満に日を送って下さい」と訴えた。トヨは環より年が二つ上であるが兄の嫁である環を姉と呼んでいた。

文面を読み環は涙してこの時点では終生妻として良人に従うことを誓ったかに見えた。

環の心は音楽、夫、母の選択に迷い「私とて良人を捨てるくらいなら、とうに生命より大切な私の音楽を捨てましたでしょう」と離婚後家に閉じ籠る環を訪れた婦人記者に述懐している。(婦人世界明治四十二年五月号)

明治四十二年二月
藤井は「環を幸せにできるのは自分をおいて他にない」と確信していた。

そこで環が家庭の主婦になるには家計その他一切を環に任せることが先決と二月二十五日は月給日ゆえ、金銭出納簿を買い求め帰宅した。ところが環は不在で学校に一週間の休暇届を出し、郷里静岡へ静養に出かけたという。

母の実家に身を寄せた環の置手紙が環の叔父後藤家にあずけられていた。その文面には「面と向ってはお話し仕難いことゆえ、手紙にて申上げなければなりません。これ迄、家庭のことで御不自由をかけましたことを本当に申訳ないと存じております。なおこの上、同じような生活を続けることになりますれば、あなた様の御心痛もますます深まり、私とても決して耐えられません。さりとて母様をさびしく見放すことも忍び難いものがございますれば、之にてお暇乞いをさせて頂きます」

さすがの藤井も憤慨して「お母さんがいらっしゃっては生活がなり立ちませんからしばらく私たち二人にしておいて載きたい」旨告げ、しばらくとわに後藤家に移って貰う。藤井は直ちに「スグカエレ」の電報を打ち引続き手紙を投函した。環を非難する文面も三通目には「広き世界に汝を救うもの吾より他に無し」と恋文にも似たものとなったが、何の音沙汰もないまま半旬が経過した。