近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

帝劇時代

帝国劇場

帝国劇場は、わが国最初の本格的洋風劇場として、明治四十四年(一九一一)三月、東京市麴町区有楽町一丁目(現千代田区丸の内三丁目)に開場した。

明治維新後、欧米化の風潮が拡まる中で劇場と名のつく洋風建築が初めて出現した。その名称は一国を代表する帝国を冠し、国立劇場的なイメージをもつ壮麗な外観を有するものであった。

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明治十六年十一月、外交を目的とした洋風建築の鹿鳴館が建てられ、舞踏会の会場となり、外交に関与する内外の紳士、淑女の社交の場として賑わったが、観客を有する劇場としての要素は持たなかった。

しかるに、帝国劇場は舞台と客席を有し、舞台上の演者と客席の観客とは相対して共感を醸成するわが国の伝統的な歌舞伎をはじめ、西欧の演劇や歌劇の上演を可能にするものであった。

帝国劇場は当初「東京帝国劇場初興業一番目〈頼朝〉」とあるように東京を冠して語感に市民の親近感を意図した。(1)しかし、劇作家の松居松葉(一八七○〜一九三三)の文例にみるように、帝国劇場とも帝劇とも呼ばれ、やがて市中の花として満都の人気を集め、「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチフレーズが流行した。(2)

第一次世界大戦を通じて飛躍的に発展したわが国資本主義経済と、有産階級のプライドに程良い文化の息吹きをもたらせたが、一方これを自分たちの暮らしとはかかわりのない「結構な身分」とみる庶民の暮らしがあったことも確かである。

帝国劇場は伊部焼の装飾白煉瓦に包まれ、内部はイタリア産大理石の円柱をもったルネッサンス風建築で壁面を絵画、彫刻、タペストリーが飾り、床面には深紅のカーペットが敷きつめられていた。

設計者は先に有楽座(一九○八年竣工)を手がけた横河民輔(一八六四〜一九四五)が起用された。有楽座は椅子席をもつ純洋風の近代的劇場として誕生したが木造であった。横河は明治二十四年の濃尾地震の被害をつぶさに観察し、これを契機に鉄骨構造の先駆的作品を残したがその代表的なものが帝国劇場である。