近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
帝劇時代―帝劇歌劇部:柴田環の返り咲き
新時代にふさわしい音楽の普及を目的に東京フィルハーモニー会が発足し、その第一回演奏会が上野の奏楽堂で開かれたのは明治四十三年四月三日のことである。この会は会員制で西欧の名曲を鑑賞するに止まらず、音楽家に、より多くの演奏の機会を与え併せて会員も演奏に参加できた。
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専門家の年四回の演奏会のほか、春秋二回の会員演奏会が設けられた。同会の発起人には東京音楽学校のウェルクマイスター(一八八四~一九三六)と東洋音楽学校長鈴木米次郎(一八六八〜一九四○)、さらに英国大使マクドナルド、男爵岩崎小弥太(一八七九~一九二二)とその夫人たちが名を連ねた。英国大使夫妻が参加した背景には彼の国のプロムナード・コンサートを範として、日本人にも音楽の趣味と知識を普及する文化的意図が考えられる。
第一回の演奏会は、東京朝日新聞文芸欄の評者、長耳生によると失敗に終った。(4)
元々、音色の違ひ、音量の違ふ日本の楽器で純西洋の曲を弾くのであるから、その下らないことは丁度西洋の楽器で越後獅子や鶴亀をひくと一般、殆んど出来ない相談である。斯ういふことが真面目の研究に価するかも疑問である。こんなことをして新に家庭音楽をはじめやうとするやうな無益な努力を費すより先づ、如何にして西洋音楽を日本人に了解せしむるやうに導くべきかゞ目下の急務である。
評者の酷評にもかかわらず神田裏猿楽町六番地の事務所には会員の申込みが相つぎ、第二回演奏会は六月五日市中の有楽座で開催の運びとなった。ここに四十二年三月、例の離婚騒ぎで音楽学校を辞職し、麴町区六番町に借家住いの母の許に同居、逼塞し、名前も本籍に戻した柴田環が、久々に姿を現した。