近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
帝劇時代―帝劇歌劇部:歌劇部の創設
帝劇はオーケストラボックスを持つ唯一の劇場であった。開場式当日舞台前からオーケストラの開会序曲が嚠喨として場内の空気を揺るがしたという。(8)
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オーケストラは当初、帝劇付属洋楽部と称し、ユンケル、ウェルクマイスターの指導のもと、開館に先立ち明治四十三年九月一日から練習を開始している。部員は百余名の応募者から技術のたしかな十五名が選抜された。(9)
次いでかねてより歌劇部創設を思案していた西野専務は四十四年六月になって柴田環の起用を決め、その交渉に入った。東京フィルハーモニー演奏会出演以来各音楽会への矢継ぎ早やの出演と、麴町上六番町における門下生の指導に忙殺されていた環は、一存で計りかねるとして返事を延ばしていた。芝桜川町に住む父柴田猛甫や叔父後藤佐一郎らの意見もきいた結果、帝劇との契約期間を十五年間とし、在職中早い時期に欧米の劇場視察をすることを条件に、また七月一日よりは帝劇女優劇に加入して毎夜十五分間を独唱に当てることで西野専務と意見の一致をみた。(10)
七月一日を初日とする帝劇第六回興業は、七時から八時の間に十五分間、柴田環の評判の声が聴けるとあって、物見高い聴衆もふくめて大入り満員の盛況であった。このところ天性の美声に十倍の人気を伴った彼女への喝采はことのほかで、ファンからの花束、花籠が贈られるなど、和服姿に扇子を持っての歌唱は一夜にして帝劇の呼びものとなった。(11)