西野恵之助はただちに歌劇部の創設を決定し、その手はじめとして歌劇部々員若干名を募集することにした。(12)応募資格は男女共年齢十六歳以上二十五歳以下とし、中等教育を受けた声楽の才能ある者に限った。なお練習中は毎月若干の手当を支給する点に特色がみられた。
八月中旬を期して生徒募集をしたところ、男子百三十名女子二十名という予想以上の志願者をみたため二十五日、劇場に全員を集めてユンケル、ウェルクマイスターそして柴田環が審査員で音律、音声、聴音の試験をした結果、男女各十一名の計二十二名を仮採用することとした。
最終的には石井林郎(漠)、服部曙光、柏木敏、南部邦彦、倭良一、不二正容、小島洋々、菅雪郎、上山浦路、川窪津留、夢野千草、川合磯代、中山歌子、大和田園子、沢美千代の十五名が第一期となった。
上山浦路ら女子部員は同年十二月上演のオペラ《カバレリア・ルスチカーナ》に、男子部員は翌四十五年二月のオペラ《熊野》に出演しており一般に日本は拙速主義だという外人の見方を地でゆくようなものであった。
歌劇部の声楽指導には環らが当たったが、〈熊野〉公演から清水金太郎(一八九○~一九三一)が加わりユンケルは明治四十五年三月任期満了となり帰国のため辞任した。その後西野専務が外遊中に招聘したイタリア人バレエ教師G・V・ロッシ(一八六七~一九──)の方針もあって帝劇歌劇部はグランド・オペラ上演を夢見つつオペレッタへの道を歩むことになる。(13)
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
(8)時事新報「帝国劇場開場式」明治四十四年三月二日『明治ニュース事典』第八巻(毎日コミュニケーションズ一九八六年刊)
(9)「帝国劇場の楽手」(音楽第二巻第三号)明治四十四年三月 注(7)秋山二二七ページ
(10)①読売新聞「柴田環女史と帝国劇場新に歌劇部を組織する」明治四十四年六月二十五日
②報知新聞「柴田女史の登場」明治四十四年六月二十五日 注(7)秋山二三七ページ
③時事新報「柴田女史帝劇に出場」明治四十四年六月二十五日 注(8)『明治ニュース事典』五一七ページ
(11)①時事新報「帝劇初日景況」明治四十四年七月二日注(⑧)『明治ニュース事典』五一七ページ②読売新聞「唄ふ柴田環(岡落葉畫)」明治四十四年七月二十三日『新聞集成明治編年史』第十四巻 四六四ページ(財政経済学会昭和九年刊)③「柴田環嬢帝劇に出づ」(音楽界第四巻第七号)明治四十四年七月 五二ページ
(12)『帝劇の五十年』には環に独唱を行わせたところ、予想外の成功を収めたので帝劇に歌劇部の創設の意を決したとある。(一六○ページ)また、宮沢縦一氏は、その決定を固めさせたものに小松耕輔、小林愛雄、山田源一郎などの声援があったことは見逃せないとしている。(武蔵野音楽大学研究記要V九四ページ 昭和四十六年十二月)
(13)増井敬二著『日本のオペラ』(民音音楽資料館昭和五十七年十一月刊)一八七〜一八八ページ ローシー夫妻の来日について詳記している。