「先ほどお話しされた画廊の一件ですね?」
宗像が聞いた。
「その通り。彼の絵は主題や表現が十九世紀の中頃、ロンドンで一世を風靡したラファエル前派の絵を髣髴とさせる絵のようにも見える。ラファエル前派はご存じですかな?」
「ええ多少は」
「それなら話が早い。二十世紀になって芸術界は、特に二、三十年代以降、様式主義、形式主義など、保守的な時代の流れに対して、前衛と呼ばれる既成の価値観を引っくり返すような動きが熱っぽく展開されていた時代だった。キュビズム、ダダイズム、シュルレアリスム、アンフォルメル、パフォーマンス・アート、ポップ・アートなど、芸術の新しい表現が模索され、持て囃されて次々と出現していた。いやはや、毎日目まぐるしい変化でね、過去の様式的な絵など、美術史家を別にすれば、あまり注目されない時代になってしまった」
コジモ・エステは、時代が告げる新しい息吹について、それを感知する独特の才能を持っていた。一九六一年のこと、ロンドンの競売場で、ある美術オークションが開かれた。彼は米国の画商が、ホルマン・ハントの油絵、シャロット婦人を、大方の予想を覆す高値で競り落としたニュースを知ったのだった。
この落札はラファエル前派の絵について、歴史上最高の値段だったと言われた。その事実から彼はラファエル前派的な絵に対し、コレクターや社会の関心が復活する兆しを感じ取ったのだった。ヴェネツィアでの、コジモとフェラーラの絵との衝撃的な最初の出合いこそ、まさにその一九六一年だった。
彼の判断を裏打ちするような出来事がこのシャロット婦人の法外な落札結果だった。もっとも彼にとっては、フェラーラが画壇に受け入れられたのは、それからさらに数年もかかってしまったのが誤算といえば誤算だった。