「しかしフェラーラの絵はラファエル前派のような[愛]や[死]など、ロマン主義的課題を使いながらも、仔細に見れば分かるのですがね、その意味合いがかなり違うのですよ。宗像さん、あなたは一瞬でそれに気がつきましたな……素晴らしいよ」
「いえ、直感だけですから」
「いやいや、その直感こそ、誰にでも賦与されるものではありませんからな。それに彼の絵にはいつも[何?]の意味が重層化されているから、謎解き的な楽しみもありましたな。神の手か悪魔の手かわかりませんが、恐ろしいテクニックを身に付けていたしね。だが、まことに残念だが、フェラーラは自ら描いた絵について、一切の解説を省いていましてね。いや拒否したのかもしれませんな。だから、そんな楽しみ方や鑑賞方法もあることが大衆には伝わらなかった。その結果、一般性がなかったし、専門家にも、もう一つ受けが悪かった。その当時、幾つものコンテストに応募したが、一つも入選しなかったことがそれを如実に物語っている」
「そんなことがあったのですか?」
「専門家か庶民かの、最低どちらかに熱烈に受け入れられない絵は、残念ながら日の目を見ないものさ。そんなとき、サン・ザッカリア教会の仕事も終わってしまった。収入が途絶えて生活にも事欠く状況が続いた。彼らは落胆してヴェネツィアではもうこれまでと思った。翌一九六二年春、見かねた私はフィレンツェに移らないかと誘ったのです。ささやかな画廊をピッティ宮殿のあるサント・スピリト地区の裏通りに開いて八年が経った頃のことで、画廊ビジネスがやっと軌道に乗り始めた時期だった。もちろん、二年前に開いたヴェネツィアの店はまだ赤字続きだった。だが私はね、フェラーラの恐ろしい才能を信じていましたからな。何とかしてさしあげたい一念で、お話し申し上げたというわけなのです」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商