そのためにも、自国の置かれている状況を正しく理解できるように、韓国皇太子に、母国にいては学べぬ近代的学問を日本にて授け、因習にとらわれず、国のこと、韓国の民衆のことを、第一に考えられる君主になっていただこうとしていました。

その間に、朝鮮半島においては送り込まれた日本の役人が、乱れた国政を改善、独立国として経営が成り立つように、京城を中心に、行政や司法の近代化を進めていたのです。

明治42年(1909年)10月26日、ハルピンにて安重根(あんじゅんこん)に暗殺された伊藤博文の残した言葉に、朝鮮半島の人々を見下したり、その土地を大日本帝国の利益のためだけの植民地にしようとしたりするものなど、あるはずがありませんでした。

明治天皇より韓国皇太子の養育を任された韓国のことを、誰よりも思った日本の政治家の計画。事情を知る京城で任務に当たっていた人や、のちにそのことを伝え聞いた家族が、引揚げ日本人の集まりで話していた「伊藤博文の置き土産」。

それは、韓国皇太子に日本に留学していただき、日本語を習得、近代皇族としての振る舞いだけではなく日本の風習や考えかたにも慣れていただいたくこと。

そして、古の時代に、藤原鎌足を祖とする藤原一族が、武力を用いず婚姻による権力掌握で宮中の政治を行った例にならい、神の娘(日本の皇族の娘)を嫁がせ、血縁関係を強化し、依然として、韓国を属国としてその政治に介入をしようとする清(中国)や、日露戦争以降も南下の意思を見せ、朝鮮半島を自国領に欲するロシアの息のかかった韓国宮廷人を、通訳という形でも介入させず、独立国の形を取りながらも同盟国として、新しい韓国皇帝を日本が後見していくというものでした。

「あなた(韓国皇太子)が、あなたの国を治めるときの役にたつでしょうから、愛する織姫(朝鮮の民)としばし別れ、私の下で修業をなさいという天帝(明治天皇)の計らいにより、牽牛(韓国皇太子)は長く日本に留学されていましたが、このたび、めでたくも天帝(大正天皇)の許しを得て、天の川(漢江)に架けられた橋(漢江鉄橋)を渡り、再び愛するものと出会う(一人前の男として、すなわち皇帝として国を治める)ことになりました」