トレーラーに搭載したシーガルⅠ号時代に陸路富戸港に下っていた時、坂の途中に瀟洒(しょうしゃ)な喫茶店を発見して入った。
東京からトレーラーにモーター・ボートを乗せて大勢で押し掛けた風変わりな我々とオーナーのおばちゃんとはすぐに会話がはずみ、当時廃業していた別棟に建つ高床式の美しいレストランの床下にトレーラーごと船を置かせてもらう事になったのだ。と同時にそのレストランをグループの別荘として借りる事にしたのである。
さらにオーナーの親戚が富戸の漁業組合の専務を務めていた事から漁師の皆さんとも仲良くなり、滅多にモーター・ボートなど舫えない漁港の中で、シーガルⅡ号だけは大目に見てもらい富戸は我々にとって第二の母港となっていった。
別荘の木造のベランダは広く、並べたデッキチェアーに座って眺める海には伊豆の島々が望まれ、いつかはあの島に渡ろうと、語り合い我々の夢は大いに膨らんだ。その前に石廊崎を極めるという私の秘めたる目標があった。
遂にその夢を叶える日が来た。一九七八年、夏の高気圧が安定して本邦を大きく覆った八月、シーガルⅡ号は網代を出港した。
湾の右に刺してある漁網を避けて初島に進路を定めた後、中程で一六〇度に方位を取って石廊崎越え遠征のスタートを切った。
軽快なエンジン音を快く耳にしながら見慣れた川奈崎そして右舷遠くに第二の母港富戸港を見ながら門脇崎を次々と交わすと大室山の溶岩台地・城ケ崎の断崖が続いたが、その断崖が切れた先にはトレーラーと車を海に沈めた八幡野が見え始めた。
そこから先は我々が未だ艇を乗り入れた事のない未知の海域であり、艇の進行方向に潜む岩礁ばかりでなくロープや漁網など浮遊物に対するウオッチのため艇に緊張が漲った。
天城山の裾に広がる海岸は延々と続き河津、熱川の通過を海図で確認できたが航程は長かった。やがてその先に稲取埼が認められ、艇のスピードを上げてそれを交わすと遥か二一〇度に爪木崎が見え出した。