はじめに
海岸には地球が呼吸しているかのような潮の干満はあるがその遥か沖合には海の道、海流がある。その海流に対し、私は人一倍強い思い入れをもっている。
それはかって海流に乗って人類が地球上を移動していたとの仮説を立て、その仮説を自ら立証したトール・ヘイエルダールの書を読んで以来、様々な歴史書や漂流記、或いはTVドキュメンタリー番組を観て海に対する想いをつのらせ、また自ら愛艇シーガル号で伊豆半島・伊豆の島々を航行した海への強烈な回顧からくる心情なのかもしれない。
私自身の体験と知識から言えば、潮流は潮の干満、風と海岸や海底の地形などによって起こる潮の流れであり、一方、海流とは太陽の熱、北極・南極の極寒地の温度差、更には地球の自転などに起因して発生する地球規模の海の流れであると理解している。
しかし本書を書き進めているうちに、海の仲間といつも語り合っていた親潮・黒潮の言葉が随所に出てきてしまう。海の仲間も何故ためらわずに潮と呼んでいたのであろうか。
私の推察ではその呼び方は時代の社会的背景に深く関わり合っているのではないかと言う事である。日本は近代に入る前に永い鎖国時代があり、舟が航行する範囲は極限られた沿岸だけであった。
そして海に関わる多くの人たちは沿岸の潮の流れは承知していたがその外には北から流れ下り、南から駆け上がる強い海の流れがある事も知っていた。
その流れに人は言い馴れた潮を付けて黒潮・親潮と呼び現代に至っているのであろう。しかし、海流は明らかに潮の流れとは違う。