なぜ今ごろになってフェラーラを?
ミッシェル・アンドレは昨日の出来事を思い出していた。
降って湧いたような些細な問題から、ある猜疑心が湧き起こったのだが、自分からコンタクトするなどは考えられなかった。しかし偶然、エリザベスの方から電話がかかってきたのだった。
差し障りない会話を交わした後、宗像という日本人の写真家を紹介された。ピエトロ・フェラーラという画家について、お尋ねしたいことがあるというものだった。
アンドレはこの名前を久しく忘れていたので、それを聞くと少なからず驚いた。なぜ今ごろになってフェラーラなどを? もうとうの昔に亡くなってしまった画家ではないか。よりによって日本人の写真家風情が興味を持つとは、いったいどういう風の吹き回しか?
まあ、今のところはエリザベスに好感を持たれるように振る舞っておくにこしたことはない。だから昨晩、メイフェアのアパートで書庫を慌てて探し回ったのだった。しかしどこにしまいこんだのか皆目分からなかった。
いや、分かろうはずなどない。忘れ去られた過去の画家だ。三十年も見ていないその画集は、林立する書架の中で、最も奥まった一番下の段に、しかも平積みされて押し潰れていた。
やっとの思いで探し当てた画集を引っ張り出し、パリパリと音を立てながら頁を捲ると、独特の黴くさい臭いが書庫の中にもったりと広がった。
一九七〇年にロイド出版から発行された例のフェラーラの画集である。ミッシェル・アンドレは当時、若干四十三歳、新進気鋭の美術評論家だった。まずは自分が解説した文章を読み返した。そしてフェラーラの描いた二十八枚の絵を見ると、アンドレは何かハッとしたものを感じた。
しかしそのとき、なぜそのような気持ちになったのかは分からなかった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商