この到底あり得ない体験がもたらす異常な推理。宗像の網膜と頭脳はたちどころにショートしてしまった。エリザベスとは→絵の中の女アンナ→双子の姉妹→ユーラは亡くなっているから……彼女は……ユーレ、というように、まさに冷静とは思えぬ強い思い込みに到達してしまったのである。
気がつくと、宗像は勢い良く扉を開けて室内に飛び込んでいた。突然の侵入者により対話が中断され、エリザベスと店主は驚いて、いっせいにこちらを振り返った。
逆光を背に、近寄ってくる宗像の顔は二人にはよく見えなかった。室内の白熱灯の明るさが外の光に勝る位置まで男が近づくと、今度はエリザベスが驚く番だった。大きく目を見開き、右手の人差し指を突き出して絶叫した。
「宗像さん! 宗像さんではありませんか? なぜここに? あなた……リスボンに行ったのではありませんでしたの?」
「エリザベスさん、あなたこそどうしてここに? 結婚披露宴はどうされるのですか?」
気持ちを高ぶらせた宗像は一歩も後へ引かずに言い返した。ピンと張り詰めた空気が店内に流れ、一瞬時間が止まったようだった。いったんは驚いた様子の店主も、二人が知り合いらしいことが分かると安心した顔色になって、こう言いながら店の奥に消えた。
「何だ、お知り合いですか? ではお茶でも入れましょう。どうぞごゆっくりしてください」
店主が消えたのを見計らって宗像は言った。異常な体験がそれを後押ししたのだろうか、何時にもなく断定的な口調だった。
「エリザベスさん。いえ、ユーレさんと言った方が良いでしょうか。あなたはユーレ・フェラーラさんですね? そしてこの絵の女性があなたの母親のアンナさん」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商