ガラスの反射で内部が見えにくいのか? それとも内部が暗いのか? 開店前のこと、まだリング・シャッターなどが閉まっているのか? 盛んに頭を動かしたり傾けたりしている。
宗像はさまざまなケースを想像しながら、しばらく無理な姿勢を続けていたのだが、目を瞬かせたその一瞬、エリザベスの姿は視界から消えていた。慌ててその場所へ駆けつけると、《ロドア画廊》と彫り込まれた看板が袖壁に取り付けられている。
《ロドア画廊》は周囲の数ある画廊の中でも一番大きく、店構えも立派だった。宗像はショー・ウィンドウの端に張り付いてこっそり中を覗き見た。後ろ姿のエリザベスと、店主であろうか、横向きの男とが、一枚の絵を挟みながら何かを話し合っている。
目を凝らし、奥を見詰めると、まるで不思議な力で吸い寄せられるように、ピントがその絵にフォーカスした。目は大きく見開かれ、呼吸は荒くなり、ガラスに添えられた手も細かく震えた。そこで見た我が目を疑うものとはいったい何だったのか?
それはイーゼルに載せられた五十号ほどの油絵だった。しかし、まさに信じがたいことなのだが、その絵とは、妻アンナを正面から描いたと思われる、ピエトロ・フェラーラ風の油絵だったのである。
そう確信した瞬間、宗像は同時にもう一つ別の事実に思い当たり、ひと言の声も発せず、呆然とそこに立ち尽くした。心臓の鼓動以外の音など一切聞こえぬほどに打ちのめされ、もはや頭の中は真っ白になった。
もう一つ別の事実とは? それは、初めて会ったときからどこかで見たはずの顔と思いつつ、どうしても思い出すことのできなかったエリザベスの顔がそこに描かれていたのである。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商