弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事
(6)
「鉄槌? たしかに、そう言ったのか?」
「全部は聞こえなかったけどね。あんときゃ、こっちも忙しくしてたしさ」
東廠(とうしょう)の役人を手引きしたのは、段惇敬(トゥアンドゥンジン)とみて、まちがいあるまい。
彼は、私に対する不快感を、かくすことがなかった。脳裡には、三年前、自分が押さえるはずだった少女のことが、執念ぶかくきざまれているにちがいない。証拠があれば、公的な裁きの席にすわらせたにちがいないが、なにもつかめなかったので、私的制裁におよんだのだ。
そして、その制裁には、自ら手を下すのではなく、痕跡をのこさぬよう、東廠(とうしょう)の役人を使った。
どこまで汚いやつだ!
宝林館(ほうりんかん)の密談の席で、彼は、莨(たばこ)をふかしながら吹聴していた――われらの上客には、東廠(とうしょう)の実力者もいるのだと。
「あんた、まさか、あいつらに、なにかされたの? もしかして、段惇敬(トゥアンドゥンジン)に?」
「ちがう。いつものように屋台をころがしていたら、とつぜん、客どうしが喧嘩をはじめてな。仲裁に入ったら、この始末だ」
「……そんな話、あたしが納得するとでも思ってるの? あの連中に、痛めつけられたんでしょ?」
「いや」
「あたしを疑ってるの? あたしは密告なんてしないよ」
外で、物音がした。
「誰か、おもてに来てるみたい。ちょっと、出てみるわね。あんた、隠れといたほうがいいかも」
反射的に、息を殺した。段惇敬(トゥアンドゥンジン)が、また東廠(とうしょう)の役人をさしむけて来たのか? 身ぐるみはがしておいて、こんどは、とどめを刺そうと?
もっと早く、ここを出奔すべきだった。ほぞを嚙んだが、あとの祭りである。
「叙達(シュター)」
石媽(シーマー)の声だ。
「あんたにお客さんだよ。通していいね?」
ああ、これで、一巻のおわりだ。逃げ場はない。
扉が開いた。まぶしい陽光とともに、私は、予想だにしなかったものを、見た。
髪をむすんだ曹洛瑩(ツァオルオイン)の、はにかんだ笑顔――。
腫れあがった私の顔を見て、彼女は息をのんだ。
「……叙達(シュター)さま」
「平気だ。さっき、そこにいる石媽(シーマー)が、手当てしてくれた」
「いったい、どうして……こんな」
「客どうしの喧嘩に、巻き込まれてしまってな」