弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事
(4)
嘉靖十四年の秋七月、広寧(こうねい)で起きた反乱が、鎮圧されたころのことである。
その日はいつになく売れゆきがよく、準備していた麵が、日がしずむ前になくなってしまい、私は、はやばやと仕事を終えた。
夕暮れ、からになった屋台を曳いて『宝林館』と大書された門前にさしかかると、いつもなら閉じている門が、その日にかぎって、あいていることに気づいた。
そのとき、魔がさした――というか、いったい、どんな建物なのか、たしかめてやれ、という気になったのである。一所懸命はたらいているのだし、いっぺんくらい、中を見せてもらっても、バチは当たるまい。
屋台をかくし、宝林館へ近づいた。
東西方向には六丈、南北方向には十丈ほどもある、二階建ての囗(くにがまえ)。周囲は高い壁で外界からへだてられており、南側に一カ所だけ、穴をうがった構造になっている。
そこには、いかめしい門がしつらえてあり、頑として、侵入者を拒んでいるかのようであった。その無愛想な門が、身体を横にすればはいれる程度にひらいている。入口から、中のようすをそれとなく、うかがってみた。誰もいない。
建物をくり抜いてつくられた、トンネルみたいな入口から、中庭へと、足をすべらせた。
注意ぶかく、あたりを見まわす。人影はない。だが、誰かが――たとえば、むかいの二階から――監視している可能性はある。
日が、暮れかけていた。
樟脳(しょうのう)のにおいがする。あの爺さまが感心するはずだ。まわりはみな、土を塗りかためてつくった、平屋ばかりなのだから。
中庭は、西日をさえぎられて、なかば宵闇に沈んでいた。だが、四方から見おろされる位置にあることに変わりはなく――監視監督の大好きな漁門のことであるから、抜かりはあるまい――ここを横切れば、気づかれないはずがない。
(引きかえそう)
立ち去りかけたとき、すすり泣きのような声が、きこえて来た。
(どこからだ?)
耳をすますと、犬の遠吠えのようにも聞こえる。どこかで、犬がないているのだろうか。
ドーン、ドーンと、丸太を壁に打ちつけるような音もきこえる。
(まさか、幽霊ではあるまいな?)
私は、西側の壁づたいに、邸内にしのび込んだ。帰ろうときめたくせに、好奇心が、勝った。
くにがまえの建物は、外壁には牕(まど)をつけず、外部からの視線を完全に遮断している。それとは対照的に、内側には、中庭を見わたせるような廻廊が、設けられていた。
階段をのぼり、二階の廻廊の欄干に両のひじを乗せると、中庭が一望できた。
さっきのすすり泣きの声が、消えている。
さては、空耳であったか?
耳をすませてみても、きこえて来るのは、夕刻の、風の音ばかりである。
(やっぱり、帰ろう)
と、思った、そのときだった。
南側の門から、複数の跫(あし)おとがして、人が入って来た。私は、とっさに、身をかくした。
先頭の男――宦官が、灯火を提げている。顔となりを確認するには十分な光であった。
(段惇敬(トゥアンドゥンジン)か)
そして、その背後には、漁覇翁(イーバーウェン)をささえながら、湯祥恩(タンシィアンエン)師兄が、ひかえている。さらには、四つ、五つの人影が、そのあとにつづいた。
漁覇翁(イーバーウェン)が、口上をのべた。
「旦那様方、ようこそ、わが『宝林館(ほうりんかん)』へ。今宵は、さまざまな趣向をこらして、準備いたしております。ささ、どうぞ、こちらへおすすみ下されよ」
段惇敬(トゥアンドゥンジン)が、東側の扉のひとつの前に立ち、錠前をはずした。階下へとつづく階段が、遠目に見える。
(地下室まで、作っていたのか……)