一瞬、宗像は茫然自失の状態で、全身が総毛立ち、危うく手に持ったマティーニのグラスを落としそうになった。絵の右下にはピエトロ・フェラーラとサインされ、一九六九年の書き込みがある。絵のキャプションは《緋色を背景にする女の肖像》と書かれていた。
描かれた女性は、またもや彼の妻アンナであろう。想像を絶するほどの妖艶さ……。
昨日の記憶が鮮明に浮かび上がった。ナショナル・ギャラリーで見た一九七〇年の画集である。しかし、フェラーラの絵が何故このような場所にあるのだろうか?
初めて見る実物のフェラーラ。吸い寄せられるように近寄り、正面から、右手から、左側から、更に極端に斜めからと舐め回すようにして絵を観察した。
宗像はこのチャンスを利用して、何とかフェラーラの絵の秘密に迫ろうとした。印刷された画集では十分に分からなかった素晴らしい技巧が、今、眼前にある。
想像より分厚い絵の具の皮膜。髪の毛ほどの細さでキャンバスを斜めに過ぎり、淡い光と影を織り成す微細なテクスチャー。
背景に広がる秘儀荘の赤色。そしてその赤の背景の下方に漂うコラージュ風の図柄。イオニア様式の白い大理石の柱頭とアーチの断片。
加えて白いバラの花が数輪。強い感動を覚えながら、ナショナル・ギャラリーで見た、フェラーラの画集から受けた生々しい印象の影響だろうか、ふと、どこかで見たような筆遣いだとも感じた。
突然、後ろで人の気配がした。慌てて振り返ると、いつのまにか暖炉の前のソファーに一組の老夫婦が、座ってじっと宗像を見ている。いや、《緋色を背景にする女の肖像》の前に立ちはだかる宗像が目障りだったのかもしれない。
それに気付いて恐縮しながら引き下がると、今度は身体がかあっと熱くなった。マティーニはまだ半分以上も残っていたが、すっかり温まってトロッとなっていた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商