エピローグ
翌朝、息子が帰っていったあと、家の中は、いつもより少し広く感じられた。
テーブルの上には、昨夜の鍋の名残りと、使い終えたフレームがひとつ置かれている。サービスはもう終わっている。
それでも、癖のように、私はフレームを手に取った。耳にかけるふりだけして、やめる。代わりに、引き出しから古いノートを取り出した。学生の頃に使っていた横罫のノートだ。
一枚、ページをめくり、新しい行にペン先を置く。何から書き出せばいいのか、しばらく分からなかった。
妻が倒れた夜のことからか。息子がメガネを外さなくなった頃のことからか。あるいは、あの黒いフレームが、この家に初めて置かれた日のことからか。
悩んだ末に、私は、今いちばん頭に浮かんでいる言葉を、そのまま書いた。
『息子にAIを彼女として紹介されたらどうしよう』
ペンを止めて、字面を見つめる。少し長い。少し間の抜けたタイトルだ。
だが、今の自分には、それ以外にうまい言い方が見つからない。
ページの上で、インクがまだ乾いていない。妻が生きていた頃、彼女はよく言っていた。
「思っていることを、そのまま書けばいいのよ。格好つけようとすると、ろくなことにならないから」
その言葉に従うなら、この拙い一行も、そんなに悪くはないのかもしれない。
私は、二行目にペンを移した。
『これは、そのときの話だ。』
そう書いてから、ふと笑ってしまう。
たったそれだけの宣言で、過去の出来事が、急に紙の上で順番を待ち始める。障害の夜も、アップデートの日も、サービス終了の画面も、どこかの行に収まろうとして、ざわざわと並び直している。
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。季節は、少しずつ次へ進んでいる。私は腰を落ち着け、ゆっくりとペンを走らせ始めた。
いつ書き終えるのか、自分でもわからない。それでも、とりあえず一行目が書けたのだから、あとは続けるしかない。
ページの端で、乾きかけたインクが、かすかに光っていた。
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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