普段はそれほど衛生面に気を遣わない樹生が、マスクや除菌グッズを買い溜めるようになってまもなく、緊急事態宣言が出された。

翔真の会社は全面的にテレワークが実施された。

樹生の勤めるジムも、かつて働いていたバーも、営業できなくなった。

何もかもが一変したように感じるが、生活を成り立たせないといけないことに変わりはない。仕事をして、ご飯を食べて、寝て起きる。何もかもが一変しているのに、そういったことは普通にできることに違和感があって、一方で、それもいつか普通にできなくなるかもしれないという不安がつきまとい、これがいつまで続くのかも見通せない。

歩き慣れているはずの道を、方向が分からないまま、明かりのない夜に、いつ朝が来るかも分からず、それでも進まないといけなくて、恐る恐るゆっくりと、足を一歩ずつ前に出している感覚が、唐突に襲ってくる。

「こんな時に一人じゃなくてよかった」

口に出してみると、翔真は不安と安堵をどちらも実感した。食材を詰め終わって冷蔵庫の扉を閉め、ゆっくりと銀色のシンクに腰を預けた。

ただ、不謹慎ながらも、と思いつつ、翔真は安堵している自分に気付いていた。家族と絶縁している樹生ほどの感情を、自分の家族の誰かに抱いているわけではなく、安否が気になる遠い故郷の顔はいくつも浮かぶ。浮かぶものの、故郷に帰らなくていい理由ができたことに安堵もしている。

いまだに距離を測りかねている家族と、肝心なことは何も話していないけれど共に過ごした時間の大切さは確かだとは思っている旧友たち、帰ってこないのかと度々声をかけてくれて、帰りたいという気持ちもあるが、同時に罪悪感や後ろめたさが勝って、帰ろうとはどうしても思えない。そうした感情も、コロナ禍は飲み込んでしまった。

「はぁぁ、さっぱりした。こんな状況でも風呂は気持ちいいね」

暢気な声を上げながら、腰にタオルを巻いた樹生がリビングに入ってきた。そのまま翔真の横まで来て、冷凍庫からアイスを取り出す。

「早く服着ないと風邪ひくよ」

「そう言いながら胸筋を揉むんじゃないよ」

「折角なんで」

「なんの折角だよ」

1分もかからずにアイスを食べ終えた樹生は、服を着てきます、とわざとらしく恭しい振る舞いでリビングをあとにした。

キッチンに残された翔真はシャツの袖を丁寧に4回折って腕まくりをし、無洗米を3合、所定の分量の雑穀と水を炊飯器に仕込んでスイッチを押した。そこにスウェットを着た樹生が戻ってきた。

次回更新は11月13日(金)、8時の予定です。

 

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