弐─嘉靖十三年、張(チャン)皇后廃され、翌十四年、曹洛瑩(ツァオルオイン)後宮に入るの事
(3)
陽がいちばん高くあがったころ、ようやく一番客が、小さな荷車を押して、入って来た。見たことのない、小柄な宦官である。右足をひきずっている。顔に白い布を巻いており、ひどく左肩があがっていて、正面から見ると、身体ぜんたいが三日月のように湾曲している。客は、荷車をわきに置いて、椅子に腰かけた。
「湯麵(しるそば)をくれ」
どんぶりをうけとると、あたりをうかがいながら、顔をおおっていた白布を、とりはずした。
ぎょっとした。
鼻がない。いや、鼻腔の筋だけがふたつ、顔の真ん中に、穿(うが)たれているばかりである。そぎ落とされたのだろうか?
劓(はなきる)という刑罰があると、きいたことがある。私も十全なからだではなく――宦官だから――用をたすとき困ることもあるが、彼は生殖器(それは放尿器でもある)のみならず、鼻までもなくしてしまっているのであった。
食べているあいだ、客はしきりに箸をやすめ、ふき出る汗と、鼻汁をふいた。
「食べにくそうだと、思ってるのか?」
あわてて視線をそらす。
「たのしみがなきゃ、やって来る客を品さだめして、たのしみにするしかねえわな。こんな人間でよければ、すきなようにながめてくれ。さっき、足のない女とすれちがったが、あの女に、何かしたのか?」
「お客さん、関係ないでしょう」
「そうとも、おれは関係ない。が、あんたには関係あるんじゃねえのか?」
めんどうな客だ、と思った。漁門とつながりのある人物なのだろうか? とすれば、少なくともこっちの味方ではあるまい。いたずらに刺激すれば、あらぬ報告をされて、困ったことになるかもしれない。
「湯麵(しるそば)じたいは、うまいぞ。徐繍(シュイシウ)とおなじ味だ」
(!)
「なんで、その名前を知ってるんだ?」
「それは、教えんほうがよかろう」
客は、めんどうな上に、もったいぶっていた。見たところ紫禁城内の宦官であるが、ひょっとすると、ずいぶん前から、徐繍(シュイシウ)のつくる麵をたべに来ていたのだろうか?
つくり方を教えてもらったのは、彼がいなくなる直前であったこと、そのとき彼が泣いていたこと、異様な空気がただよっていたこと……私はいっさい、口にしなかった。この客に対しては、それほど身がまえる必要はなかったと、あとになってわかったのだが、初対面の相手には、気をゆるしてはならぬ、と、自戒していたのである。
「……ところでお客さん、どなたにお仕えを?」
「おれは、直接には、だれにも仕えちゃいない。しいて言うなら、閻魔(えんま)大王だな」
思わず、苦笑した。
「よく、わかりませぬが……」
「永楽帝(えいらくてい)によって創建されてから、紫禁城には、百二十年になんなんとする歴史がある。そうではないか?」
「ええ」
「長い歴史があるということは、あの城壁の中で、多くの人が死んでいったということだ。役人、宦官、宮女、宮女が密通してできた赤子とな。人は、かならず死ぬものだ。だから城内には、遺体を手あつく葬る、専門業者がいる」
それが、おれだ――と、言うのであった。