まち子は、毎朝六時前には仁明亭に入るようにしている。

その日、いつものように厨房に入ると、かすかに焦げた匂いが鼻についた。花を焼いたような香りだった。すぐに鮎を焼いているのだとわかった。この時期なら若鮎だろう。仁明亭では食材にこだわり、魚類は近くで獲れる川魚と決まっている。

先週までは養殖の山女を焼いていたが、ようやく天然物のシーズンになったのだろう。同じ山の魚でも、養殖と天然ものとでは香りが違う。とくに、炭火で焼いたときの華やかさが違った。

「いい香りね」

グリルで火加減を見ている坂本さんに、まち子は声をかけた。

「初ものが入ったと聞いて期待したが、まだ痩せすぎてますね」

坂本さんは六十を超えたくらいと聞いていたが、肌には張りがあり、白いものが混じる髪は豊かで、まち子とさほど年差がないようにも見える。普段は近くの小料理屋をやっているが、繁忙期や週末で厨房の手が足りないときに、仁明亭に手伝いに来ていた。

坂本さんは、グリルの中で脂のはじける加減に目を凝らしながら、火力の調節弁に注意を払っている。若鮎は脂乗りが少ないので、強い火力で一気に焼くと身を焦がしてしまう。まち子は、坂本さんの彫りの深い横顔に薄っすらと汗がはりついているのを認めたので、ハンカチで軽く叩いてあげた。

まち子の一日の仕事は、お客への配膳から始まる。その日の客は老夫婦が一組だけだったが、早出をしたいということで、七時に食事を部屋に運ぶことになっていた。夕べの膳で、御飯にほとんど手をつけていなかったので、調理担当にお願いして特別に柔らかめに炊いてもらった。

仁明亭の御飯は、米の芯を感じさせるくらいに硬めに炊く。新潟産のこの種には、この炊き方が一番合っているが、口に合わない人もいる。まち子は、柔らかく炊けた御飯をしゃもじですくって、数粒口に含んでみた。米粒の表皮が口の中で溶けて、甘味が広がる。これなら、あの老夫婦も大丈夫だろうと思った。

朝食の配膳を終えたら、午前中の仕事は一段落する。布団の片付けや部屋の掃除は、別の係がやる。客を見送ってしまうと、まち子はアパートに戻った。

そのまま仮眠することもあれば、買い物に出ることもある。その日は、なんだか疲れていて、帯だけ解いて横になった。

静かな時間だった。街には音もない。カーテンの開いた窓から射し込む陽光が、ぼんやりと緑色掛かっていた。アパートの裏にある竹林が色移りしているのだろう。どこかで鳥の鳴く声が聞こえると思いながら、まち子はまどろんだ。

 

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