【前回の記事を読む】15年前に一夜を過ごした女と、夜の旅館で二人きりに。「今夜は、ゆっくりできますか?」彼女を見ていると、胸が熱くなってきて……
雪の夜
2
「わたし、中崎の家を出てきました」葉子の言葉に、英介は耳を疑った。
そして、葉子の姓が、中崎ということを改めて思い出した。昼間に見た料亭の玄関の軒下に、「中崎」という墨書きの看板が掛かっていた。
「どうして、そんなこと?」
「ずっと、そうしようと思っていました。今日出ようか、明日出ようかと。このカバンの中には、いつも通帳やカード、保険証、それからパスポートも入れてあって、何かあったらいつでも家を出られるようにしていました」
葉子の黒目が、ゆっくりと、色合いを変えていく。女の心の揺れが、そこに映るようだった。この目は、あのときと何も変わっていない。
英介は、じっと葉子を見つめた。
「そうしていないと、自分がどうにかなってしまいそうで」
葉子は、そこまで言うと口をつぐんだ。感情のない表情に、強い意思だけが見えた。
「苦労をしているみたいだね」
英介が言うと、葉子は表情を崩した。その表情が、どこかあどけなくもあった。
「こんなことをして、あきれた女だと思っていらっしゃるでしょう?」
英介が首を振ると、葉子はふっと目を細めた。
「もう、とっくに限界を超えていました。来る日も来る日も夫の不義を見せつけられて。こんな話、恥ずかしいのですが……、お店の見た目はあんな感じでも、内情は寒いの。お店の切り盛りはすべてわたしに押し付けて、誰も助けてくれなくて、心も身体もへとへと……」
葉子は、ぽつりぽつりと言葉を継いだ。
「今日も、夫がお店に新しく来た若い女に手を出したと聞かされて、もうこんなところを出ようと思っていたの。だから、お店に来てくれたあなたの姿を見たとき、ああこの人はわたしを救い出しに来てくれたのかと思いました」
「それは……」
英介は、葉子に何かを言ってやりたかったが、言葉が思い当たらなかった。自分はただ、葉子に一目会いたいと、それだけを考えてここまでやって来た。
葉子がいまどんな状態にあるのか、知る由もなかった。しかし、葉子の話を聞きながら、彼女がいま抱えているものが、英介にも染みてくる気がした。
「心配なさらないで。あなたに迷惑はかけません。今度はちゃんとお金を持っています」
そう言って、葉子はじっと英介を見つめた。その様子は、どこか凛としていて、男がどんな反応をするのか、見逃すまいとしているようにも見えた。
英介は、葉子の脇にあるボストンバッグに目を落とした。そこに葉子のすべてが入っているのだろうか。
「ご迷惑でなかったら、あなたの旅行に付き合わせてくださらない? あなたが帰るまでには、わたしもちゃんと自分の行き場を探しますから」
葉子はそう言うと、細い目をわずかに細めた。