雪の夜
1
見渡す限りの桃畑だった。それが桃畑とわかるのは、つるりとした木肌の感じと、子供が無邪気に手を広げたような枝ぶりからだった。枝々には、新聞紙でつくられた虫よけの紙袋がところどころに残っている。
桃の実のひとつひとつに袋を被せる作業は、思いのほか辛抱のいる作業で、はじめのうちは遊び半分でやっていたが、すぐに腕が疲れてきて音を上げた。子供の頃によく訪れた祖父母の農園では、人手のたりなくなるその時期になると、親戚が総出になって袋掛けに駆り出されたものだった。
桃の木々は、すっかり葉が散り尽くして、風がよく通っていた。鄙びたという言葉が、そのまま当てはまるようだ。きっと、この辺りの風景は、長い時間、何ひとつ変わっていないのだろう。
福島駅からローカル線に乗り換えて、一時間ほど揺られてようやく着いた駅だった。この先には、有名な温泉郷があり、たいていの乗客はそこを目指すらしい。
この小さな駅で降りる客は、他にいなかった。戸田英介は、無人の改札を出ると、周囲を見渡した。駅前には、小さなロータリーがあり、ドラッグストアと郵便局があるきりだった。遠目には、入り組んだ山々の稜線が見え、白く霞んでいた。
その料亭は、すぐにわかった。県道沿いに大きな看板があり、数寄屋造りの平屋が見えた。敷地は、黒板塀でぐるりと囲まれ、切妻屋根に赤茶けた瓦が敷き詰められた様は、品のある旅館のような佇まいだった。
玄関を入ると、店の中は奥に向かって広がりがあり、タイル張りの三和土に、十卓ほどのテーブル席がゆったりと並んでいる。小上がりや座敷もあった。昼食時のせいもあってか、客は多かった。
英介は、立ち働く従業員に目をやり、年格好からこれかと思う女の姿を追ってみたが、どれもピンとくるものがなかった。英介の記憶そのものも、怪しかった。
「こちらに、葉子さんという方はいらっしゃいますか」
テーブルに着くと、案内をしてくれた若い店員に尋ねてみた。地元の生まれという感じで、あか抜けてはいないが、紺地に縞の入った袷に赤い帯を締めた様子が可憐だった。
「葉子さんといったら、女将さんのことじゃない」
そう言って、近くにいた年増の女に向かって、声をかけた。
「女将さんなら、奥の座敷に。呼んできましょうか」
五十がらみの、優しそうな顔立ちの女だった。英介は、お願いします、と頭を下げた。
しばらくすると、奥から女が現れた。藍色の地に、梅鉢ちらしの文様をあしらった江戸小紋に、帯は白地に紅葉を散らした柄のものを合わせていた。すっと背筋を伸ばして歩く姿には、他の従業員たちとは違った雰囲気があった。
英介が会釈すると、女は少し考えるような顔になり、それから、小さく口を開いた。
「あら、あのときの?」
英介の頭の中で、長い時の流れが、ゆっくりと還流してくるようだった。
きちんと化粧をされたその顔は、どこかおっとりとしているが、細い目の印象が優しげだった。白い肌に、頬紅の紅さが際立って、そこから香りが立つようだった。英介の記憶の中で曖昧になっていた女の顔立ちが、目の前ではっきりと像を結んでいく。
英介が笑いかけると、女ははにかんだように応えた。