【前回の記事を読む】雪で列車が動かない夜、見知らぬ女が「宿に泊まるお金がなくて…」と打ち明けた。僕は彼女をホテルへ誘い……

雪の夜

2

温泉郷の宿は、明治に起源をさかのぼる老舗だった。これまでに何度も増築を繰り返してきたらしく、迷子になりそうなほどの複雑な造りで、どの部屋も渓流にせり出すように造られていた。

流れはかなり深いところにあるらしく、生い茂る木々のせいで、川そのものは見えなかったが、水が岩を打つ音がはっきりと聞こえた。

渓流を覆う木々の葉は、どれも色づいていた。カエデがいちばん目を惹いたが、桜やニシキギも鮮やかだった。

葉子が旅館に現れたのは、夕食を済ませたあと湯につかり、部屋でビールを飲んでいるときだった。

葉子は、案内をしてくれた女中に礼を言うと、英介に向かって居ずまいを正した。

「あのときは、ありがとうございました」

その姿を見て、英介は息を呑んだ。十五年前に目にした女が、時を越えて姿を現したようだった。

藍色の地に、梅鉢ちらしの文様の江戸小紋は、昼間に店で見たときと同じだった。小脇に、ベージュの風除けコートを抱えている。

あのときも、この人はこんな格好をしていたような気がする。違っているのは、小さなボストンバッグを持っていることと、足袋が白光りするように真新しいことだった。

夜の九時を過ぎていた。

英介はすでに二度ほど湯を浴びていた。火照った身体がなかなか冷めなくて、飲んだビールが汗となって吹き出していた。

「宴会のお客様に手間取って、遅くなってしまいました」葉子は、申し訳なさそうに言った。

「お店を抜けてきて、よかったのですか?」

英介が尋ねると、葉子は優しげに微笑んだ。緊張しているのか、目が潤んでいる。英介にも、その緊張が移ってくるようだった。

「少し、飲みませんか」

そう言って英介は、新しいコップを座卓に置いた。赤光りする座卓は、見るからにしっかりとした樫で、四脚に彫りもあり、上質のものだとわかる。

葉子は、ビールが注がれたグラスを両手に取ると、三分の一ほど口をつけた。上品な飲み方だった。

「これ、あのときの宿代に。いまさらですが」そう言って葉子は、封筒を差し出した。

「そんなこと、もういいんです」

「でも」

葉子は、困ったように眉根を寄せた。その表情に見覚えがあると思った。