【前回の記事を読む】夫の浮気に耐えかね、夜逃げしてきた女。「あなたが帰るまで、ご一緒させて」夜の旅館で、彼女を優しく押し倒して……
霧のみずうみ
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見上げると、山々の姿はまるで、水をたっぷりと含んだ絵の具を塗り散らしたようだった。青さと白さが混じりあい、色の境界線が曖昧だった。青の中にも濃淡があり、奥行きがあった。その奥行きから、こちらに向かって何かが迫ってくるようだった。
山がまだ目覚めない朝、まち子は坂を登る。遠くには稜線がかすんで見える。そのかすみ具合が、日ごとに表情を変えていくのを確認するのが、まち子は好きだった。
暦の上では四月になったが、この辺りでは、桜のつぼみも固い。まだ残っている夜気の冷たさと、朝方の湿り気がない交ぜになって、質感のある空気がまち子の肌を撫でた。
まだ早いと思いながら、小桜を散らした若草色の江戸小紋を選んでアパートを出た。ピンクの小さな花弁が、うるさすぎず散らされている。まち子のお気に入りの着物だった。
アパート裏にある駐車場を横切り、温泉街へと続く石段を登る。温泉街は、山頂の神社へと続く石段を中心に広がっていて、そこから枝分かれした細い道が、左右に走っていた。仁明亭は、その中腹にあった。
まち子は、ゆっくりと石段を登った。人の姿はない。足袋と草履が擦れて、きゅっきゅっという音をたてる。傾斜が急なので、小柄なまち子は着物の裾をたくし上げて登ることになる。合わせの下で、左右の太ももがこすれると、ふと艶かしい気持ちになった。
男はまち子の脚が好きだった。まち子を裸にすると、いつまでも飽きることなくまち子の脚を撫でる。頬ずりをしたり、舌を這わせたり。そうされると、まち子は感電したように痺れて動けなくなる。
あの感じは何なのだろう。男の偏執的な愛の表現に、気が付けばどっぷりと感化されていた。まち子は、ずいぶん会っていない男のことを思い返して、身体の芯がほんのりと熱くなるのを感じた。
仁明亭までは、ゆっくりと歩いても十分とかからない。まち子は、そこで仲居の仕事をしている。働き始めて二十六年になる。仲居の中では、最古参になっていた。
仁明亭は、明治から続いている老舗の温泉宿だった。著名な画家や文人が常宿にしていた歴史があり、知名度も高かった。いまでは新興のリゾートホテルや高級旅館に圧されてはいるが、愛着を持って贔屓にしてくれる顧客は少なくない。
増築を重ねて複雑に入り組んだ建造物は、国の指定文化財になっている。松の木肌をそのまま外壁に張った造りや、青錆びた銅板の屋根は、街を歩く人の目を引いた。