【前回記事を読む】「遠江は徳川のもの」のはずが…今川領を“なかよく”分け合う密約を結んだ信玄と家康。だが掛川城を包囲する家康の背後に、武田軍が現れ…

第一部 桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い

二 三方ヶ原の戦い~駿河・遠江の分割領有から合戦に至るまで~

武田・徳川間で交わされた分割領有の密約について

まずは、武田信玄から遠江の国衆に宛てて、徳川ではなく武田に味方するよう調略の手紙が発せられていたということ、逆に徳川家康からも駿河の国衆に宛てて、武田ではなく徳川に味方するように調略する手紙は発せられていたということである。

もうひとつは、家康の抗議を受け入れて信玄が秋山勢を退きさがらせたのは、そうせざるを得ない事情に陥っていたからで、徳川の言い分を素直に認めた訳ではないという解釈である。

武田の駿河侵攻にあたっては、それまでの甲駿相三国同盟を破棄する必要があり、信玄は駿河側に非があったためとして甲駿間の同盟を破棄し、これを相模に伝えたことになるのだが、相模の北条氏康はこれに激怒し軍勢を発した。

これには徳川から北条へ働きかけがあったため、そのような徳川の機転に技ありをとられた信玄は、徳川を容易ならざる敵であると認識したようである。

また駿河内でも旧今川勢力の一揆が発生して、信玄は間道から本国に帰らなければならない事態にまで陥ってしまったのである。

武田は天竜川を川切にしてと認識という③については、おそらく『三河物語』の

「然る所に、元亀三年壬申之年、信玄寄申被越けるハ、天竜の河をきりて切とらせ給へ、河東ハ某が切取可申と相定申處に大炊河ぎりと仰候儀ハ、一圓に心得不申」

という記述を根拠としているであろうが、駿河と遠江の分割領有の密約は永禄十一年から翌年にかけての出来事なので、元亀三年の主張を持ち出す合理性はなく適切ではない。

ところで、秋山勢が信濃から遠江に侵攻した件については、『當代記』にも記述がある。

『當代記』は山家三方衆のひとつ奥平氏の子孫にあたる松平忠明が編纂したといわれるが確証はないらしいのだが、山家三方衆に関する多くの内容を含んでいる。

「遠州へも自信玄秋山伯耆守に伊奈郡人数相添、遠州へ被出、然處山家三方衆属信玄、秋山に伴遠州に出張也、引間の人数三方原へ出合戦、三川の山家三方衆及合戦、引間衆敗北、数多討捕」とあり、永禄十一年暮から翌年にかけて三方ヶ原の戦いがあって、山家三方衆はこれに武田方として参戦したというのである。

さらに「二月秋山伯耆守遠州に在陣、無其詮之間、駿州へ通、三川三方衆は属家康公遠州に在陣す」とあり、その戦いの後に山家三方衆は徳川に従属して掛川城攻めに参加したというのである。

ただし、この記述をそのまま史実として受け入れることはできない。それは後述することにする。

遠江に進出した徳川家康が最初に本拠を置こうとしたのは見附(静岡県磐田市)であるが、その新城の普請は間もなく途中で中断し、引間(曳馬)を浜松と地名を改めて新城が普請されて本拠が移された。

天竜川より東にある見附では、東の武田から侵攻を受けた時の防衛上の問題があると、同盟者である織田信長から反対されたため、天竜川の西にある浜松に改められたといわれている。