「信濃路進攻説」と「駿河路進攻説」
甲斐の武田信玄が遠江に侵攻するという家康にとっての最大の危機は元亀三年(一五七二)、武田軍が甲府を出発したのが十月三日である。
従来の通説では、その主力軍は信濃伊那郡から遠江に出る進路を南下した。途中、北遠江の犬居城の天野景貫が早々に武田の軍門に降り武田の先導役を買って出たため滞りなく遠江の平野部に到達、たった一日で天竜川東側の天方城・一宮城・飯田城・向笠城・各和城の五つの城を攻め落としたのが十月十三日であるという。
浜松から出た徳川の偵察隊は予想より早く南下した武田軍と遭遇戦になったのが「一言坂の戦い」で、退却戦となった徳川軍の殿軍を見事につとめ、敵から「徳川に過ぎたるもの」として賞賛されたのが本多忠勝である。
武田軍はすぐには浜松城には攻め込まなかった。『三河物語』には「信玄ハ見付のだい寄、ごうだゐ島へ押上而陣取、其寄二俣之城責たる」とあり、天竜川の東側にある合代島に陣を敷いて二俣城攻めにかかったというのである。
ところが近年これまでの通説に異を唱えて、武田軍は信濃路ではなく駿河路から侵攻したのだとする新しい説が提唱され、従来の「信濃路進攻説」に対して「駿河路進攻説」と呼ばれている。
この説の根拠は十月二十一日付で山家三方衆の奥平道紋に宛てて発給された「不違兼日之首尾、各々忠節誠感入存候、於向後者追日可令入魂存分候、弥戦功専要候、当城主小笠原悃望候間、明日国中ヘ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候、猶山県三郎兵衛尉可申候、恐々謹言」という信玄の書状である。
もうひとつは『當代記』の
「十月、信玄遠州発向、高天神表を通、見付国府に被打出、見付には自濱松人数雖被置、無勢之間引退、信甲衆見付之古城普請之躰を見て、夥ことゝ云々、信玄二俣に押寄被攻」
という記述であるが、『當代記』の編者は奥平氏の子孫である松平忠明であるとするならば道紋宛信玄書状を根拠に記述していると思われるので、現代の私たちはふたつでひとつの根拠とみたほうがよい。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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