渉は部屋を片づけながら、幸江の言葉を思い返した。自分がまだ、こういう気持ちになれるんだって。
それは、渉にとって他人事ではなかった。
自分が、まだ、何かを感じられるかどうか。自分が、まだ、人間として機能しているかどうか。渉は子供の頃から、ずっとそれを確かめることができなかった。誰かに必要とされるという感覚が、渉にはなかった。
(でも、あの人は言った。来てよかった、と)
渉は、シーツを畳む手を止めた。
生活のためにこの仕事を選んだ。ほかに選択肢がなかったから。でも今夜、渉は初めて思った。自分がここにいることで、あの人が少し変わった。少し、自分を取り戻した。その一端を、渉が担った。
(もしかして、やっていけるかもしれない)
帰り道、夜の駅のホームで電車を待った。冷たい空気の中に立って、渉はぼんやりと線路を見ていた。こんなに静かな感触を得られる日が来るとは、思っていなかった。
コンビニで缶ビールを買った。マンションに帰り、6畳の部屋の真ん中にあぐらをかいて、プルタブを開けた。「乾杯」と、声に出した。誰もいなかったが、今夜はそれでよかった。
そういえば、あの夜の客・大西浩子から、また予約が入っていた。翌月も、その次の月も来た。
来るたびに、浩子は渉に、いろいろなものをくれようとした。お菓子、ハンカチ、手紙。渉は「お気持ちだけ」と、何度も断った。
でも、断り方が、渉は下手だった。きっぱり拒むことが、できなかった。子供の頃から、強く拒めば、もっとひどい目にあう、と体が覚えていた。だから、いつも申し訳なさそうに、曖昧に断った。
浩子は、その曖昧さを、希望だと受け取ったのかもしれない。
施術が終わると、浩子はいつも名残惜しそうに、渉の指先を、首元を、目で追っていた。
その視線に、渉は少しだけ嫌な予感がした。でも、まさか、と思った。優しくしていれば、いつか、わかってもらえる。渉は、本気で、そう信じていた。
そしてある夜、帰り支度をしながら浩子が言った。
「ワタルさん、プライベートで会えませんか」
渉は穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「それはできないんです。申し訳ないですが」
浩子は「そうですよね、ごめんなさい」と言って、その日は帰っていった。
渉はその夜、特に心配はしなかった。断ればわかってもらえる。そう思っていた。
それが、甘かった。
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